第7話 雪原白兎

 ヴォルガ帝国歴311年。


 大陸は肥大した三つの帝国が、それぞれに傀儡国家や衛星国、属国を従えて、鎬を削り合っていた。

 大陸の北部及び東部。面積にして実に四割を有する、凍土と騎兵の国、ヴォルガ帝国。


 皇帝による強力な支配体制を敷き、民衆には徴兵義務が定められている、戦闘的な国家だ。英雄時代の初頭はミハイル二世という皇帝が君臨していた。

 かの治世は可もなく不可もない実績であったという。これが平時あれば名君の末席に加えられる可能性もあっただろう。だが、周辺国の存在が、ヴォルガの安定を大きく損なっていた。


 ヴォルガの西にはフリジア=シノン連合教国が存在していた。

 元はフリジア王国とシノン王国という異なる二つの文明だったのだが、一神教であるフェブール教を双方が奉じていることにより、融和政策が唱えられた。

 以来フリジア王家の人間とシノン王家の人間が、交互に皇帝へ即位する体制に変化したという。


 フェブール教の影響力は大きく、大陸の至る所に信徒が存在していた。ヴォルガ帝国も国教は一応のところフェブール教とされているが、その権力は限りなく小さい。


 ヴォルガ帝国皇帝の権威は、人民に支持された『隣人党』によって成り立っている。信仰の否定はしないが、教会が権力を持つことは固く禁じられている。


 そもそも、ヴォルガ人は人為による統治こそが正義であり、運命とは自らが切り拓くものであると考えている。そのため、フリジアの宗教的な思考とは相いれず、互いに反目しあっている歴史があった。また、ヴォルガとフリジアの間には領土問題が根深く残っている。


 南部方面には拡張的な異民族である、ラーマ大王国の版図がある。


 大陸全ての文化はラーマ大王のもとにひれ伏し、文化統一の御旗へ参集せよと大々的に布告を出していた。ラーマ人による支配は正統なものであり、目的を達成するためにはいかなる手段をも是としている。


 ラーマからの暗殺者は数多く、内部攪乱や離反工作などの仕手を噛ませることでも有名だ。問題はそれをラーマ支配下以外の全ての国に行っていることだ。


 必然的にラーマ大王国は他国と戦争状態になっているのが常である。だが戦力を二正面、三正面と展開しても、その力は衰えの兆しを見せない。


 ヴォルガでは農業強働者。フリジアでは奴隷という階級がある。犯罪者や貧民、被差別民族が指定されるもので、多くの不満を内包している。

 だがラーマは大王以外の万民は平等であるとの価値観を発していた。とはいえ多少の身分差はあるが、食いつめた者が続々とラーマに逃げ込むのは、火を見るよりも明らかなことだったに違いない。


大陸を包む暗雲。三つの大国。

この時代を歴史家は『英雄世代』または『三帝時代』と呼んでいる。


 見渡す限りの雪。不毛な寒冷地にプロパガンダが木霊する。


『ヴォルガ人民は常に総力戦を望んでいる。怒れる労働者は、敵を必ず絶滅させるだろう』


 ユーリの第二小隊を含む輸送部隊は、針葉樹が雪で大きくしなっている険しい山道を進軍していた。鼻孔や口から吸い込む空気に、茨の棘が混じっているのではないかと錯覚するほどの荒天だ。

 ぴんと張りつめた冷気は、兵士の体力や体温という通貨と引き換えに、必要な生命行動を辛うじて許可しているようにもみえる。


『皇帝と党に忠誠を。人民は血の河を渡りて、侵略者の喉笛を残酷に食い千切らん』


 政治委員が部隊の先頭で声を張り上げる。ユーリが少年偵察団<ピオネール>にいたころから聞かされていたスローガンだ。


 ヴォルガ帝国は皇帝ミハイル二世の名のもとに召集される、帝国議会が国権の中枢である。その中で最大派閥である『隣人党』は、皇室への熱狂的な忠誠を旨としていることで有名だ。


 人民は皇帝のために生き、皇帝のために死ぬ。皇室こそヴォルガ。父たる存在であり、凍土が母だ。ヴォルガ人は物心がつくと必ず忠誠の宣誓をさせられる。


『二十四時間の戦闘態勢を敷き、全部隊が最前線の一兵士であることを自覚せよ』


 故に党が発するこのスローガンは、皇帝の勅令と同義だ。ヴォルガ人、いわんや軍人であるならば、身命を賭して従う義務がある。


 今回党から出た命令は、後衛に回っている部隊にも十分な練度を積ませ、いつでも前線に終結することができるようにすることだ。ヴォルガの前線は未だに一進一退を続けてはいるが、上層部は危険性を早期に察したのだろう。


 アンドレイ・ベンディーク大尉は、党の命令を熱心に受注したようだ。曰く、第43補給基地の部隊こそが全軍で最も忠誠心に溢れ、勇敢な兵士であることを証明してみせると。


 帝国歴311年二月。それまでは前線に向かう部隊に直接預けられていた、小規模な荷物や補給物資の荷馬車に、第43補給基地の人員を直援として配置することが決定された。アンドレイは、護衛に出ている自分の部下ががあわよくば敵との遭遇戦になることを狙っていた。


 ユーリは自分が率いる第二小隊五十名と、荷馬車の人足役三百二十名を率いて、護衛の任についていた。誰も彼もが寒さの前で、苦虫を噛みつぶしたような顔をし、雪花が躍る峠道を下っている。


 兵士の進行方向の右手には深い針葉樹林の森があり、左手には水が流れる音が聞こえる、深い谷が寄り添っている。


 ユーリたちは、補給基地での駐屯任務はどこよりも寒く、過酷な場所だと今まで思っていた。だが吹雪く風を受けて、その情報は更新された。今では山中行軍ほどの地獄はないと認識されている。


「全軍止まれ! ここで大休止をとる!」


 ユーリは先頭の旗持ちに命令を下し、部隊の停止を試みた。即座に旗は振られ、等間隔に配置された第二小隊の兵士が、全方から後方へと命令を伝達していく。十数分の時間の経過を必要とした後、ユーリの意思は部隊全員に浸透された。


 みな呼吸は荒いものの、安堵の顔を浮かべている。荷馬車付きの作業員たちも、背負い荷物を地面にどっかりと降ろし、疲れた吐息をもらす。ユーリ自身も慣れない馬に乗り続けたせいか、足が痙攣しそうになっていた。


「護衛の兵は装備の点検を行うように。エセク・ラシュトフ軍曹、荷馬車を整備する者と、火の番をする者とを分け、交互に休憩をとらせろ。出発前には閲兵を行う」


「了解しました、同志少尉。……少尉のお体は大丈夫ですか?」


「エセク……。うん、僕は馬だからね、まだ元気な方だよ。でも鐙と轡が僕の体に合ってなかったみたいだよ。お陰で足がちょっと、ね」


「班分けを指示してきます。同志少尉はそのまま休んでいてください」


「ありがとう。ついでで申し訳ないけれど、テオドールとルイセを呼んできてくれないかな」

「了解です。……じゃあまた後でな」

「うん」


 生真面目な顔を一瞬緩ませた後、エセクは他の仲間のところへ向かって行った。その姿を見て、ユーリは少なからずの頼もしさを感じていた。時をそれほど置かずに、呼び寄せた二人がユーリのもとにやってくる。


「同志少尉、お呼びで?」

「ユーリ……きた……。ひあうぃーごー」


「お疲れ様。二人には前方に偵察に出てもらいたいんだ。ここまでは順調だったけれども、この先が同じとは限らないからね」


 二人は同時に敬礼をする。


「了解、行ってくるぜぃ」

「この雲……これからもたくさん降る……。ちぇけら」


 ユーリは空を見上げる。鈍色に薄く白みがかった雲が厚い。目的の地点までは残り二日の距離にある。前線の仲間を救うためにも、自分たちは急がなくてはいけない。焦燥は胸に凝り固まるが、それを嘆いたとて天候が変わるはずもなくだ。

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