第199歩兵中隊の足跡
第4話 ユーリ・マゼイン
第43補給基地に雪花が舞う。
陣地の中央よりやや南側に配置された士官用幕舎で、一人書類と格闘している人物がいた。
「ええと、これは魚油の輸送計画書で……こっちは補修用の資材か。うーん、なんで同じ棚にいれるかな、もう……」
マゼイン子爵家の次男、ユーリ・マゼインは羽筆で耳たぶをかきながら、一人天幕の中で愚痴をこぼしていた。
本来は専門の事務官が処理するべき案件なのだが、ヴォルガ帝国の識字率の低さと、戦時中における人材の偏りが相まって、戦闘要員であるはずのユーリが駆り出されていた。
そもそもヴォルガは平時であっても書類の伝達には難があった。意図されていた場所には全く関係のない箇所に物資が届くことも、日常茶飯事だ。
後背地では大規模な徴兵が続いている。士官も任官までの時間が短縮され、ほぼ素人同然の若者が前線に送られていた。
『ヴォルガの兵士は畑でとれる』
ヴォルガ帝国内でも、現在戦争中のフリジア=シノン連合教国からも揶揄される言葉だ。
ユーリは十六歳という若さながら、士官学校の卒業証書を無理やり与えられた一人だ。軍上層部としては、現在フリジア軍とにらみ合っているトゥヴェルツァ川防衛線の補強が最優先であり、兵士個人の能力や質には構っていられない状況であった。
「眠っちゃ……駄目だ……」
華奢で低い背丈。帝国軍の正式な士官用鎧を着ているのだが、なんとも頼りない雰囲気を醸し出している。
金糸の髪に広がる光沢が見るものを魅了し、アメジストの瞳は深い宇宙のように輝いている。片方だけ伸ばした前髪を三つ編みに結っている。これは魔除けのおまじないの一つだ。
ユーリが鎧を脱ぎ、私服で町を歩いていたとしよう。その状態ですれ違った人物は、誰しもが彼を年頃の乙女と認識するに違いない。丸みを帯びた細い腰。新雪のように白い肌が性別を混濁させる魔力を放っているのだ。
女性なら誰しもがうらやむ容姿なのだが、ユーリは自分の顔や体に多大なるコンプレックスを持っている。士官学校に入学したときには、女子用の制服が用意され、寮も女子寮が割り当てられていた。ユーリが着替えを始めると、他の男子たちは一斉に教室からいなくなってしまう。
「っ!? 危ない、落ちるところだった……。仕事、そう、仕事しなくちゃ」
頬をぴしゃりとたたき、ユーリは再び文章の処理にとりかかった。手元にある文書に書かれている文字は、まるで象形文字のようにぐにゃぐにゃと曲がりくねっている。
「はぁ……こんなのどうすればいいんだよ……」
ふくれた頬にかかる細い髪を指で耳にかける。少尉として着任して以来、紺補給基地での仕事は事務一本だった。
第43補給基地は前線から離れた安全地帯にある。ここには貴族の子弟や関係者が多く集められ、一応は保護されている状態にある。
平民は積極的に前線へ。貴族は比較的安全な後方へ。ヴォルガではごく普通の習わしだ。
暗号解読に匙を投げようとしていた時、ユーリの幕舎の前に人影が現れた。
「マゼイン同志少尉! なんだねこの書類は!」
幕舎に入るや否や、開口一番にユーリを叱責した。
「は、はい。どのような書類でしょうか、ベンディーク同志大尉」
声変わり前のような、メゾソプラノの声で緊張しながらユーリは返答しつつ敬礼をする。
大声の主はアンドレイ・ベンディークという。くすんだ茶色のおかっぱ頭に、神経質そうな瞳を持つ。背丈はユーリよりもはるかに高い。肩章の星は三つで、ユーリよりも二つ上の上官である大尉であることを示していた。
「うむ」
アンドレイは答礼を帰すと、近くにあった粗末な木の椅子に座った。
ユーリは顔を引きつらせながら、上官が怒鳴り込んできた要件をうかがう。基本的にアンドレイは部下に優しく、貴族の中では割と人気のある男だ。騎士道精神にロマンを感じており、権威的志向があるのは否めないが、上司とするには比較的良い人物である。
「書類に不備でもございましたか?」
「これをみたまえ、同志少尉」
アンドレイが付きだしたのは、獣皮紙に書かれた緊急案件の輸送計画書だった。
「ええと……何がいけなかったのでしょうか」
ユーリは無意識に小首をかしげる。本人は気づいていないが、仕草が一つ一つ乙女を感じさせるものであり、それは無骨なアンドレイとはあまり相性のいいものではなかった。
「同志少尉、これで何回目だと思っている。前線に送る飼料の量が一桁間違っていたぞ」
「はっ、申し訳ありません。直ちに増量いたします!」
「馬鹿者! 逆だよ、逆。貴官は前線で牧場でもひらくつもりかね? 輸送する量が多すぎるのだよ。まったく……これでは我々の初陣がまた遠のくではないか」
「はい……」
「そのように女々しい態度は兵士に舐められる。もっとしゃきっとしたまえ」
「奮励努力いたします!」
アンドレイの実家であるベンディーク子爵家は、ヴォルガ帝国の旗本の一つだ。爵位上はユーリのマゼイン子爵家と同等だが、帝国内の影響力はユーリの家よりもはるかに強い。
マゼイン家は主に学問によって立身出世した一門である。ユーリ自信も戦争さえ始まらなければ士官学校に行かずに、大好きな考古学の勉強をしていたことだろう。
逆にアンドレイは華麗に武勲を立てたいと願っている。第43補給基地では一個大隊を預かる指揮官の一人だが、任地が安全地帯なので戦場にでることができない。
苛立ちはつのるばかりで、解消する手段がない。そのことがユーリとの間にギスギスとした空気を発生させている原因となっている。
「まあいい。今夜は雪が一層酷くなるそうだ。兵士たちに火の管理を徹底させるよう通達を出しておきたまえ。ボヤでも起こしてみろ、我々は真の力を発揮できぬままに懲罰部隊に送られてしまうぞ。栄えあるヴォルガ軍人としてそれだけは避けねばならん」
「承知しました、大尉殿」
「それはそうと、その木箱にあるものは何だね?」
「はっ、前線の兵士を慰撫するために送られてきたウォッカです」
「ほほう……それは私が点検する。本日の仕事はここまでにして、食事でもとってきたまえ」
満足そうに木箱を抱えて、アンドレイは立ち去って行った。目の前の酒に一喜一憂するところは、アンドレイもユーリも戦争素人であることを証明している。
「では、任せたぞ」
「了解いたしました、同志大尉どの!」
アンドレイが去った天幕の中で、ユーリは人知れず小さなため息をついた。
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