逃避行的関係

こぞたに

第1話

 ふと、目が覚めた。

 目を少しだけ開けるとまだ暗い。寂れたドライブインに停めた車の中は、目をよく凝らさなければ何も見えないほどだった。


 とりあえず癖のように腕をぐるりと一周させる。一日中運転をしていた疲れがまだ取れていないからなのか、それとも運転席が硬いからなのか、関節がほぐれるのに少し時間がかかった。紫乃には悪いけど、後ろの席で横にならせてもらえばよかったな。


 たぶん困ったように笑いながら、気にしないでよって言うだろうなと同乗者の顔を思い浮かべていると、寝起きで理性と欲望が繋がっていない頭の欲望の部分が、そうだ、と何か名案を思いついたかのように声を上げる。

 今なら紫乃の寝顔が見れるんじゃない?

 なんなら頭も撫でられるんじゃない?


 寝起きの理性には甘すぎるその声に、私は操られるように、寝ている紫乃の顔を覗き込もうと助手席の方を見る。


「え、紫乃は?」


 声が漏れる。

 そこに紫乃はいなかった。

 寝るときにはいたのに、おやすみって、幸せそうな顔で言っていたのに、今彼女はそこにいなかった。——幸せそうに見えていたのは、私のただの願望だったのかもしれない。


 もしかしたら、と後部座席を見ても、そこに広がっているのはただ暗いだけの空間で、いくら頑張ってもその影に紫乃の形を見つけることはできない。紫乃の姿は見えなかった。彼女の少し明るめの色をした髪も、快活な印象を与える瞳も、すらりと伸びた手足も、優しい声も、彼女を彼女たらしめるもの全てがそこには欠落している。


 あぁ、と変な声を漏らしながら、彼女の定位置を自分の身体で埋めるように助手席に座って、背中に私のものでない体温が混ざっていくことに気付いた。その暖かさが、まだ紫乃と繋がっているような感覚を私に与えて、私は嬉しさに体を震わせる。


 まだ、まだ紫乃は近くにいる。

 紫乃が車を出たのはたぶん数分前。今から追いかければ十分追いつけるはずで、頭の中にうずまく感情が早く早くと体を急かす。それに応えるように、車のドアに手をかけて、でもそれを開くことは出来なかった。


 ——紫乃は、本当に望んでいたのだろうか。


 さっきまで紫乃の暖かさに包まれていた身体が、どんどんと冷えていく。

 ドアにかけていた手が、所在なさげに空を漂って、それから窓ガラスにそっと触れる。冷たかった。私の手はそこで動きを止めて、外に広がる暗闇に吸い込まれることもない。窓ガラスはあまりにも厚く、硬い壁だった。


 外を見れば、真夜中のあまりにも寂れた駐車場が、点在する電灯にかすかに照らされていた。目線を遠くにやれば、駐車場の三方を囲む深い森が、真っ黒に塗りつぶされているのが見える。バックガラスの向こうでは、国道を走る車のライトが、ドライブインを区切る低木に遮られて、ちらちらと瞬いていた。


 ——紫乃は、本当に望んでいたのだろうか。私と一緒に来ることを。この逃避行を。


 私たちと「社会」を隔ててくれるはずだった窓ガラスも暗闇も、今は私と紫乃の間で硬い壁になっている。

 私には、この壁を越えて、紫乃の領分に踏み込む資格なんてないのだ。彼女がこのドライブを拒んだのなら、私が無理やり連れ戻すことなんて、できないのだ。


 頭は冷静に、諭すようにそう言っているのに、目は勝手に涙を流すし、手は勝手にドアに手を伸ばす。諦めが悪いなぁ、と私は私を嘲笑った。

 そもそも、気が早かったんだよ。酒の席の一言を真に受けて連れ出すなんて。

 分裂した自我が私をさらに責め立てて、別の私が言い訳を考えるために脳をグルグルと働かせる。思い出されるのは、紫乃と二人で飲んだ昨日のことだった。実際には飲んでいたのは紫乃だけだったけれど。


 昨日の夕方くらいだっただろうか。六連のビール缶を片手に吊りながら、紫乃は私の住むワンルームのアパートに来た。「愚痴に付き合ってよ」なんて泣きそうな顔で笑うから、いつも一本くらいしか飲まないで笑っている紫乃が、就活の面接をすっぽかしたことへの後悔を吐きながらどんどんと空き缶を増やしていくのを止められなくて、結局紫乃の顔を真っ赤にさせてしまった。


 ——そんな真っ赤な顔で、潤んだ目で、あんなことを言われてしまったら、二人で逃避行するしかないじゃないか。


「どこかにつれてってよ」


 なんて。

 だから、私は次の日の朝、実家から拝借した車に、二日酔いで苦しむ紫乃を突っ込んだのだ。


 この逃避行が紫乃の本当の望みで、私は紫乃を救えている。そう信じていたかった。でも、あれは酒の席でこぼれた言葉で、半ば現実逃避のような、言ってみただけで実現するなど考えていないものだったというのは心のどこかでは気づいていた。

 それでも、それに気づかなかったふりをして紫乃を私の車の中に引きずり込んで連れ去ったのは、私が紫乃なしでは生きていけないから。私の都合だ。


 紫乃とは中学からの付き合いで、彼女の存在はもう私の中で、いて当然のものになっていた。それでも時間は過ぎていって、私たちは社会人になろうとしていて、これから先もずっと一緒なんて甘いことがあり得ないのは分かりきっていた。高校までは当たり前のように信じていたことは、放課後の空き教室で囁いたことは、ただの幻想で、若気の至りともいえるものだった。

 それに私が耐えられなかっただけなのだ。紫乃はきっと私なしでもあのコンクリートの街で生きて行けるけれど、私の居場所は紫乃の足元なのだ。


 だから彼女を攫った。

 紫乃がアルコールの匂いをさせながら逃避行を望んだ時、私は何を思っただろうか。彼女の背中をさすりながら、私は。


 よかった。これで心置きなく攫える。

 そう思ったじゃないか。自分のわがままに付き合わせる理由を見つけて喜んだじゃないか。

 そんな私に、この逃避行を拒んだ紫乃を追いかける資格なんてあるのか。


 そんなの答えるまでもない。私の自問は黒い液体に形を変えて、そのあまりの苦さに顔をしかめる。その苦さを味わい尽くす義務があるような気がして、舌を埋め尽くす紫乃の影に身を任せた。

 紫乃は、ちゃんと逃げられただろうか。もうこんな時間だけど、あと二時間もすれば電車も動き出すだろう。きっと今ごろはコンビニで時間を潰して、それから彼女はあの街のアパートに帰るのだ。


 思えばとても遠くまで彼女をわがままに付き合わせてしまった。地図には知らない地名が並んでいるはずで、それが彼女の見知ったものに変わるのには何時間も電車に揺られる必要があるだろう。彼女も財布は持っているはずだけど、足りるだろうか。


 そこまで考えて、もう紫乃には会えないことに気がついた。会ってはいけない。それは当然のことで、でも私には覚悟があまりにも足りなかった。

 私たちは、最後に何も言わないまま別れるのか。


 目から涙がこぼれる。しょっぱい。

 外はどこまでも暗くて、この先に広がる世界のどこかに紫乃がいるなんて、到底信じられなかった。


 窓に額をつけて、もたれかかる。やっぱりガラスはひんやりとしていて硬かった。その冷たさが私の頭に登ってぐるぐると回る血を落ち着かせて、苦しさが和らいでいく。

 手はまだドアのレバーに手をかけたままで、まだ胸に残る息苦しさに耐えられなかった私は、そのレバーを引いた。


 紫乃は、ちゃんと逃げられただろうか。それだけが気がかりだった。私が起きてからだいぶ時間が経っていて、多分もう私の追いつかないところまで彼女は行っているだろう。

 そうであってくれ、と祈りながら、私は車の座席から地面へと飛び降りる。外は涼しい風が吹いていて、それに当てられてやっと呼吸ができた気がした。


 ちょっとだけ、歩こう。

 このまま車の中に引きこもる気にもなれなくて、私は駐車場を歩く。チカチカと点滅を繰り返す古い電灯が、私を導くようにして、古いコンクリート作りのドライブインに足を向けさせる。


 そこに誰かがしゃがみ込んでいるのに気づいたのは、だいぶ近づいてからだった。黄ばんだ蛍光灯に照らされながら、手でカタカタと何かをもてあそんでいる人は、やはり幻覚でなかったらしい。


「紫乃」


 私は、抑えなかったら周囲に響き渡るような大声で抱きついていたであろうところを、落ち着いた声で彼女に声をかける。表情も、満面の笑みでなく、落ち着いたものに。ちゃんとできているだろうか。


「目、覚めちゃった?」


 私の中の焦りと喜びと苦しさと安堵を隠すように、紫乃を気遣うような顔と声を出す。彼女は手に持っていた缶コーヒーから手を離し、パッと顔を上げると、私を見つけて嬉しそうな顔を浮かべた。その表情に私はさっきまでの暗い思考が思い込みであったことに安堵して、それでもこの逃避行は私のわがままなことに気づいて、ひどく申し訳なくなった。


「ごめん、眠れなくて散歩しようと思ってたんだけど、千夏のこと起こしちゃった」


 彼女はそう言って申し訳なさそうな顔をする。散歩か。その理由に私はまた安堵した。


「じゃあ一緒に行こうよ」


 そう紫乃に微笑むと、私は彼女の手をとる。ちょっと強いかもしれないけれど、我慢してくれ、と私は心の中で謝った。もう我慢できそうにない。

 しゃがみ込んでいる彼女を半ば無理やり引っ張って立たせ、私たちは駐車場を駆ける。右手にかかる紫乃の体重が心地よく、もう離したくなくてさらに強く握ってしまう。


 ドライブインの駐車場の周り三方を囲う森、その境界の草とアスファルトの混じり合うところまで私たちは駆けた。鬱蒼とした木々に埋もれて役割を果たしていない街灯に手をかけて、私も紫乃も笑う。私たちはチカチカとした光にだけ照らされて、私たち以外は木々の影に包まれていた。


 息を整えながら、私は紫乃の顔をまじまじと見つめて、それから繋がれている私たちの手を見た。

 このつながりに、私たちはなんと名付けよう。

 結婚、家族、それから何だったか。大人を気取っていて実は幼かったあの日に、強い決意と共に囁いたはずの言葉は、しかし今の私たちにはあまりにも空虚だ。

 結婚も家族も、全部あのコンクリートの街に置いてきて、私たちの手元にはもうないのだから。

 だから。


「責任、取るからね」


 結局私はこう言うしかないのだろう。

 私は格好つけてニヤリと笑ってみるけれど、紫乃はなんのことかわかっていないようで、首を傾げる。


「だから、私が連れ出したから、その責任」


 私がそう言うと、ああ、と気づいたような顔を浮かべて、それならと紫乃も応える。


「わたしも、責任取るから、千夏のこと」


 その言葉はあまりにも優しくて、私は私のわがままな気持ちをそのままに紫乃に身を任せようと思う。紫乃ならこの私のわがままに責任を取ってくれるだろう。私が私たちの逃避行に責任を取るように。それは口約束だけどあまりにも強固で、綺麗なものだった。


「だから責任取って」


 紫乃は続けて笑う。私も釣られて笑った。私の右手と紫乃の左手が一緒になって揺れて、空を切った。

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