第10話 二日目
『なんで、そんなことも出来ないんだ』
今でも夢に見る。
はじめて、三太が父と稽古をした時のこと。父の動きを真似するように言い含められ、同じような動きをしたつもりだった。
けれど、それがまぁ、ひどかったのだろう。
父親どころか同じように初めて稽古を受けていた使用人達からも笑われてしまった。いや、当時は使用人ではなく単なる友達のような関係だったか。三太自身も幼い頃過ぎてよく覚えていないが、そんな次第で、稽古をする度に彼は人望を失っていった。
三太はそのことを恨んではいない。精一杯やった結果、そうなったのだから、誰が悪いと言うことでもないはずだと彼は考えている。三太が父が求めた領域に達しなかったこと、三太自身よりも使用人たちの方が才があったこと。何より、『月夜野』という家がその才のみを求めていたことだ。それを思えば、三太が勘当されたことは至極当然のことなのだ。
だから、三太は誰も恨んでいない。
ただ、せめて、もっとはやくこうなっていれば、学生のうちにもっと遊べたのになという後悔だけはあった。
✳︎
三太が目を覚ますと、薄暗い室内と見慣れない天井が目に入った。
一瞬まだ寝ぼけているのかと思ったが、すぐに思い出す。ここは文七から与えられた部屋だ。昨晩は瀬菜が作った夕飯を食べ、そのまま眠ってしまったのだった。
疲れが溜まっていたのだろう、寝支度をして布団にもぐりこんだところまでで記憶がない。ぐっすりと眠ることが出来たおかげで、体調は万全だ。三太は起き上がり、文七に与えられた寝巻きを脱いだ。
一張羅である外向きの服に着替え、三太は刀を手に取った。
ずしりとした重みに安堵する。同時に、昨日のことが夢でもなんでもないことを確信した。
勘当。
父親から捨てられた事実は紛れもない現実である。それを三太は改めて思い知った。
ただ、まぁ。
「……そっか。もう、稽古しなくていいんだった」
こうして住む場所ができたのはよかったな、と三太は改めて文七に感謝した。精神的な余裕があるのとないのとでは気分がまるで違う。快眠できたのも、文七や瀬菜が歓迎してくれたからだ。
そうだ、瀬菜にも感謝しなければならない。
学生の頃は交流はあったが、つい昨日までは疎遠だった程度の仲だ。今後は何かとお世話になるのだから、せめて迷惑をかけないように生活しなければと三太は気を引き締める。
引き締めるが、
「……柔らかかったな」
三太は昨日の瀬菜の感触を思い出していた。
夕飯の時は普通だったが、昼の時のあれはなんだったんだろう。色んなところが、こう、なんというか、柔らかてすぎて、今でもその感触を鮮明に思い出すことができる。特に二の腕に感じた二つの感触はあまりにも、こう、刺激的で、あったかかった。
「うん、あったかかったなぁ」
いや、まぁ、いやらしい意味はないと三太は自分自身に言い聞かせた。
そうだ、ただ久しぶりの感覚というか、はじめての感覚だったから鮮明に思い出すことができるのだ。誰かから抱き締められたのは、少なくとも、三太の記憶の中にはなかった。
母は生まれてすぐに死んでしまったし、父からも誰からも抱きしめられたことはなかった。まさか、同級生がはじめてになるとは思っても見なかった。しかも、一年以上疎遠だった女子と。
女子に抱きしめられたのだ。
これほど喜ばしいことがあるだろうか、いや、ない。三太はそれを確信した。
と。
「おはよ」
むにょん、と。
三太の背中に柔らかないなにかが押し当てたられた。
「な、な、な……っ!」
「んー? なによ、朝の挨拶くらいしなさいよ」
むにゅん、と背中に押し付けられている何かが形を変える。記憶の中にある感触よりもはるかに鮮明でより密着感が増している。三太は離れようとして、いつの間にか首筋に彼女の腕が巻きついていることに気づいた。腕を振り解こうにも意外に力が強い、というか、三太の力ではびくともしなかった。
瀬菜。
彼女は何故か背中から三太を抱きしめていた。
「お、おはよう。じゃなくて、あの、ちょ、ちょっと、あの、離れてよ! ていうか、なんでいるんだよっ!」
「起こしに来てあげたんじゃない。折角寝顔見れると思ったのにさー、あんた意外に早起きなのね」
「勝手に入ってこないでよ! ていうか、なんで抱きついてんの!」
「んー? 早起きのご褒美? 嬉しくないの?」
「……い、いらないよ! とにかく、早く離れてよ!」
「わかりやすいわね、あんた」
三太が抗議をしても瀬菜はまるで聞き入れようとしない。
むしろ抱き締める力は増していき、お互いの鼓動を感じてしまえるほどの密着感。三太が自覚できるほどの鼓動の高鳴りは当然瀬菜にも伝わっているはずだ。その事実に対する気恥ずかしさに三太は首元まで熱くなって、全身から汗が吹き出てるのを感じた。
と。
「そこまでだ、セナ。朝っぱらからみっともない真似してんじゃねえ」
ようやく、三太にとっての助け舟が来てくれた。
「げっ、もう起きたんですか?」
「げっ、とはなんだ。随分冷てえじゃねえか、おい。なんだ、反抗期か?」
「違いますよ。ただちょっと間が悪いかなっていうか、見逃してくれてもいいんじゃないかなって思っただけですー」
むにょんとした感覚が消えた。
首元に巻かれていた腕も解かれ、ようやく三太は自由になった。思わず距離をとる。見れば昨日と同じく、赤く燃える瀬菜の姿が見えた。不思議だったのは背中から抱きつかれていた時にはその光がまるで見えなかったことだ。というか、これだけ明るいなら部屋に入られた時点で気づかない方がおかしくないだろうか。
背中に残る感触を忘れるために、三太は懸命に思考を巡らせる。
「あれ? なんで布団の中にいるんです?」
瀬菜が不思議そうに言った。
見れば、敷かれたままの布団に毛玉が一つ。眠たそうに目を細めて、猫が大きなあくびをかいていた。
文七。
周囲の人間からそう呼ばれている猫っぽい何かである。昨日のように着物を着ておらず、何故か大きさも三太の知る猫そのものになっている。というか、昨日の記憶の方が間違っていたんじゃないかと
「にゃに。お前さんがこいつに悪さするかもと思ってな。昨日の晩に忍び込んだ」
「え、何してんですか」
いや、ほんと何してんだこの人……猫は。
「寝相もよくてな、随分快適だった。お前さんと寝るよりも安眠できたよ」
「ずるっ。次は私も連れて来てくださいね!」
「だから、それがダメだつってんだろうが」
文七は伸びを一つして、部屋を出ていく。瀬菜もその背中を追っていった。
「おい」
不意に、文七が振り返って三太を見た。
「ちょいと早いが飯にしよう。おれの手料理だ、楽しみにしてな」
猫の手料理。
というか、その姿でどうやって料理をするつもりなのだろう。疑問はいくらでも浮かんだが、朝からの出来事のせいで思考するのも億劫になってしまった。三太は特に反抗することなく、文七たちについて行くことにした。
ふと、片手に刀を持ったままだったことに気づく。もちろん鞘に収めたままである。今更だが、それだけ瀬菜の襲撃が衝撃的だったのだ。腰に差すかどうか迷った末に、床に置く。こうして、三太の居候二日目は始まったのだった。
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