第3話

 彼方ちゃんが泣き止んでから、どうにか説得して家に来てもらうことになった。

 彼方ちゃんはあれから三十分間泣き続けていた。今まで溜めてきたものを一気に吐き出すように声を上げて泣き続けた。

 今までよほどつらい思いをしてきたのだろう。

 僕なんかが想像できないほど大変な目に合ってきたのだろう。

 そう思うと、やっぱり胸が痛んだ。


「……佐渡さん、……佐渡さん」

「え? な……なに?」

「やっと返事してくれました、さっきから何度も呼んでるのに返事してくれないので、無視されてるのかと思っちゃいました」


 そう言って彼方ちゃんは胸をなでおろす。


「ご……ごめん……ちょっと考え事してて……」


 あやうく彼方ちゃんを傷つけてしまうところだった。

 どうにも僕は考え事を始めると周りが見えなくなるらしく、完全に自分の世界に入り込んでしまって、今みたいに無視してるように見えてしまうらしい。

 前に大学仲間に言われてから気をつけるようにはしてるんだけど、どうにも癖になっているらしく、まったく治らない。


「考え事ですか? やっぱり私が泊まるのが迷惑なんじゃ……?」


 彼方ちゃんが不安そうにこちらを向く。


「そ、そんなことないよっ! 今考えてたのは違うことだからっ!!」


 正直、思いっきり彼方ちゃんのことを考えていたが言わなかった。

 これ以上彼方ちゃんを傷つけたくないし、聞かれたことに対してウソは言っていない。


「それに僕から言い出したんだ。気にしなくていいよ。あっ! あれが僕の家だよ。……家って言ってもアパートだけど……」

「アパートだって家ですよ。それに泊めてもらうのに文句なんて言いません」

「そう言ってもらえると助かるよ。さぁ上がって、広くもないし、ちょっと汚いかもしれないけど好きにしてもらってかまわないから」

「はい。おじゃまさせていただきますね」


 そう言って彼方ちゃんは丁寧にお辞儀までして僕の部屋に上がった。

 部屋に入ると、特にこれといって珍しいものなんてない部屋を初めて人間の家に上がった子猫のようにきょろきょろ見渡し始めた。

 やっぱり男の、しかも年上の人の家に一人で上がるのには抵抗があるのかもしれない。


「お腹減ってるよね? 何か食べる? それともお風呂でも入る?」


 なんだか新婚ほやほやの新妻みたいなセリフになってしまった。

 気づいてみると結構恥ずかしい。


「いえ、お昼をご馳走になって、しかも泊めてもらってるのに、夕食までご馳走になるなんて……」

「さっきも言ったよね。僕が言い出したことだから気にしなくていい。遠慮しないでって。確かに初めて来た家でくつろぐのはちょっと抵抗あるかもしれないけど、夕食いらないとか、迷惑って言うのはやめてほしいな」


 優しく諭すように僕は言った。

 たぶん今の彼方ちゃんに必要なのは優しさなんだ。

 なんというか、愛情というか、人の温もりというか、とにかくそういった感じの優しさが必要なんだと思う。


「は……はい。すいません」


 それに本来彼方ちゃんは素直な性格なんだと思う。

 ただ辛いことがあって、ちょっと優しさを素直に受け止められなくなっているだけなのだろう。

 だったらこっちから何度も優しさをあげればいい。受け止めてくれないなら今みたいに無理にでも受け取ってもらえばいい。

 ただそれだけのことなんだから。


「夕食作るのに少し時間かかるから先にお風呂に行ってきなよ。身体冷え切ってるだろうから。タオルはタンスに入ってるから好きなの使ってね。あと服は洗濯するから洗濯機に入れておいてね」


 夕食の準備をしながら彼方ちゃんを促す。彼方ちゃんは遠慮がちに「はい」と答えてからタンスを調べ始めた。

 その間、僕は冷蔵庫と夕食の相談をしながら、とりあえず調理器具の水洗いを始めた。


「じゃあ先にお風呂もらいますね」

「うん。どうぞ! シャンプーとかも好きに使っていいからね」


 少しするとドアの閉まる音が聞こえ、シャワーの音が聞こえ始めた。

 なんだか女の子がお風呂場に居るってだけで妙に緊張してしまう。

 僕は少しでも気を紛らわすために、さっさと簡単なおかずを作ることにした。とりあえず冷蔵庫に一通りの野菜があったからサラダは決まり。でも、それ以外にはろくな食材がなかった。

 いつもなら夕方に買い物に行くのだが、今日は彼方ちゃんのことばかり考えていて買い物に行っていない。調味料はあるが肉や魚なんかの食材はなし。

 これではろくな物が作れない。元から大した物を作れるわけではないが、材料がなければ、ますますひどいことになる。


「……どうしよう」


 冷蔵庫の中身と今晩の夕食の相談は、何を作るかではなく、何が作れるかという話題に変わってしまった。


「……チャーハンにしよう! 早く作れて簡単だし、少しの調味料でも作れるし、この材料でもおいしいものが作れるはずっ!」


 朝食の残りのご飯を電子レンジで温めながら、野菜を水洗いし、適度なサイズに切ってからお皿に盛りつけた。そして温まった朝食の残りのご飯とフライパンを用意し、その中に卵を投入。

 箸で適当にぐちゃぐちゃにして、スクランブルエッグ状になったらご飯を入れる。ある程度水分がとんだら適当に野菜を入れ、こしょうなどの調味料で味を調えた。


「……少ない材料にしてはよくできたかな」


 それなりにおいしそうなチャーハンができた。

 材料が少し不足していたのでもしかしたら少し物足りないかもしれないけど、食べれるものにはなっているはずだ。

 一人で自分に賞賛していたら彼方ちゃんがお風呂場から出てきた。


 ―――バスタオル一枚で……


「……。……えっと服は!? ……っていうかごめんっ! 今後ろ向くからっ!!」


 慌てて彼方ちゃんを見ないように後ろを向き、申し訳程度に手で目を隠す。

 心臓を落ち着けようと胸に片手を当てると、心臓がバクバクいっていてうるさい。


「言われた通り着ていた服を洗濯機に入れたら着る服がなくなってしまって……」

「あぁ! 服ね! ちょっと待ってね!」


 彼方ちゃんの言葉で事情を把握した。

 それは一着しかない服を洗ってしまえば、着る服がなくなってしまうのは当然だ。

 彼方ちゃんの方に目を向けないように目を閉じて、あわててタンスに近づこうとしたらテーブルに足をぶつけてしまった。

 涙目になり、その痛みに耐えながら今度こそタンスに近づく。

 そして見事にタンスの角に足の小指をイン!

 すごく痛い。

 後ろからは彼方ちゃんのくすくすと笑う声が聞こえる。 恥ずかしいし情けないしで、もう死にたい。

 それでもどうにかTシャツらしきものとスウェットらしきものを取り出すことに成功した。下着はもちろん男物しかないので諦めてもらおう。


「は……はい。サイズが合わないと思うけどごめんね」


 半分涙声になりながらどうにか着替え一式を彼方ちゃんに渡すと、彼方ちゃんはまだ笑いをこらえた様子でお風呂場に戻っていった。

 僕もその音に安心して閉じていた目を開ける。


「……いてて、二度も足をぶつけるとは……それにしても……」


 見てしまった。

 まだ年端もいかない穢れなき少女の体を見てしまった。

 洗ったばかりで輝いているきれいな黒い長髪、水滴を滴らす鎖骨、小さいながらもしっかりと存在を主張する胸、ミルクのように白く透明な肌、とてもきれいな桜色の唇。

 すぐに目を背けたつもりだったのに鮮明に思い出せる。

 もう罪を償って死ぬしかないんじゃないだろうか?

 ついさっき死ぬほど恥ずかしい姿を見られたし、今彼方ちゃんの半裸を見てしまい、彼方ちゃんを助けるどころか辱めてるしでまったく役に立ててない。

 むしろ傷つけてる気さえする。

 そんな時彼方ちゃんがお風呂場から出てきた。


「お風呂ありがとうございました。あとさっきいろいろぶつかってましたけど大丈夫ですか?」

「……うん。こっちこそごめん。バスタオル巻いてたとはいえ……その……見てしまって……」


 顔を彼方ちゃんの方に向けると彼方ちゃんは恥ずかしそうにもじもじしている。やっぱり傷ついたのだろう。


「ごめん。ちょっと待ってて。今キッチンから包丁持ってきて死ぬから」

「えっ!? ちょ……ちょっと待ってください! 私なら大丈夫ですから! それは……少し恥ずかしかったけど……気にしてませんから!」

「ほ……ほんと……?」

「はい! ほんとのほんとのほんとです!」

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