拾伍 見果てぬ夢を畢羅に包んで


 あっと口を押さえたときにはもう遅い。

 しかし彼は特に怒ったりはせずに、私の失言を笑い飛ばして片眉を上げた。


「僕の故郷のある地域ではね、すっぽんのことを龍、鶏のことを鳳凰ほうおうって呼ぶんだ。つまり龍鳳燴ロンフォンフイっていう料理は、簡単に言えばすっぽんと鶏肉のごった煮。優秀な厨師ちゅうしのおねーさんなら何か違和感に気づかない?」


 突然、教え子にさとすような口調で投げかけられた質問。単純だがなかなか難問だ。

 料理の実物すら見たことないのに、雀の涙よりも少ない情報だけで問いに答えろと言われたのだから。


 うーんと腕を組む私の脳内で、金晃きんこうの含みのある笑みや言葉の断片が小石のように転がる。


「すっぽんと鶏肉? もしかすると、それって食材の味が打ち消し合うんじゃ……」


 料理人としての感を頼りに、私はほんの小さな原石を見事に探り当てた。


 鶏肉には鶏肉、すっぽんにはすっぽんの美味しさがある。

 どう考えても、ふたつ合わせてより美味しくなるという組み合わせじゃない。

 それは、ひとつの皿に豚肉と牛肉がいっしょに盛りつけられる料理がほとんど存在しないのと同じ原理だ。


 おまけに両者はそれぞれ山の幸と川の珍味。

 同じお皿に盛りつける上では、相性的に最悪と言っても過言ではない。


 直感的に湧き起こった思いを素直に伝えると、金晃は「正解!」と嬉しそうに手をたたいた。


「みんなそう思うはずなんだ。だけど龍鳳燴はそんな美食の常識をいとも簡単にくつがえした。それこそ、僕の料理のだ」


 だってだれも想像できやしない。

 本来なら相克そうこくし合うはずの食材それぞれの旨みをスープに溶けこませることで、素材の味がさらに引き立つなんて。


「僕が評価されたのは、まったく新しい美食の『型』を生み出したからだ」


 しかし実際に、調理がうまくいくかどうかは完全に賭けだったのだという。


「そ、それ、もし失敗してたらどうするのよ!」

「僕の能力がそこまでだったってことでしょ。覚悟はできてた。僕の美食が陛下の舌に届かなかったときのために。でも、実際は賭けに勝ったんだけどね」


 狂ってる、と私は口のなかでつぶやいた。

 一歩間違えれば、彼の料理人としての人生は終わっていた。


 他の厨師同様、己の才能に見切りをつけ、黙っている選択肢もあったはずだ。

 けれども彼はさらなる高みを目指すため、その選択肢を迷いなく捨て去った。

 そのおかげで今、金晃は厨師長として宮廷に君臨しているのだけど。


「世に名を残す才人たちはみんな、自分の能力をよく理解している」


 理解できないものを生かすなんてできやしないよ、と。

 ふいに顔から笑みを消し去って『奇才』は言った。


「僕の能力は既成概念をぶち捨てて一から新しいものを生み出す『創造力』だ。それが例え食材を台無しにする行為だとしても、人生をした大勝負だとしても、より良い美食のためなら僕は一切ためらわない」


 一見、成り立たないように思える奇抜な食材の組み合わせ。

 だれもが見向きもしない断片的な特徴に価値を見出し、新たな食譜レシピを創造する。

 その結果、奇跡的に生まれた味わいにだれもが魅了される。


 それこそ『奇才』の金晃が生み出す美食なのだ、と。


 それが彼なりの助言だと知ったのは、もうすこしあとのこと。

 私は指定された仕事の時間が近づいているのに気づき、タイミングを見計らって木から降りた。

 一度自室にもどり、身支度をすませてから重い足取りで離宮まで向かう。


 結局、あの厨師長はなにが言いたかったんだろう。

 木の上でなにをしていたのか聞くのも忘れてたし。

 けれども私の頭は変な概念をぶちこまれたせいで、ごちゃごちゃとしていてそれどころじゃなかった。


「能力……って、どういうことよ」


 舟に揺られているときも、離宮の長い廊下を歩いているときも、私の頭はただそれだけでいっぱいだ。


 たぶん、調理技術や食譜レシピだけじゃどうにもならない。

 実力をのばすには、まず自分の能力を知れってこと?


 金晃は特殊な力を持つ食仙じゃない。

 そこにいる一般の厨師となんら変わらないのに、なぜか私たちには遠く及ばない。


 奇才にはあって、凡才にはないもの。

 両者を隔てる才能の壁が、かすみがかったように見えない。


 私には、いったいなにが足りないっていうの?


 あいかわらずひんやりと冷えた離宮の庭が今日は妙にじめじめとしていた。

 昨日、雨降ってたっけ――なんて思いながらまばらに生えた竹林を眺めていると、視界の端で何かが動いた気がした。

 反射的にそちらへ目をやると、竹やぶのあいだから白煙みたいになびく布のようなものが見える。


 侍女じじょのだれかが外で干していた洗濯物だろうか。

 私は特に怪しむこともせずにすたすたと近づき、思わずぎょっとしてしまった。


 それがまぎれもなく、白装束しょうぞくに身を包んだ小柄な人の体だったからだ。


「……殿下?」


 言葉にして、ようやく状況の異常さに気づく。


 返事はない。

 力なく垂れ下がった細い腕に、玉のような汗が浮かんでいる。


「――凌白りょうはく殿下!」


 私はたまらず悲鳴を上げた。

 遅れて侍女たちがばたばたと駆けつける足音がした。


 ◆ ◇ ◆


 凌白が意識を取りもどしてから最初に感じたのは、ぬくもりだった。

 なんだろう、とぼんやり考えながら視線をわずかに横へずらすと、自分の手にだれかの手が重なっているのが見えた。


「ああ、よかった。目を覚まされて」


 心底ほっとしたようすの声に視線を上げると、こちらをのぞきこむ女性の姿がある。

 この人は、たしか――。


「安心してください。私、実は大学で薬学を……じゃなくて、医学の知識がちょっとだけあるんですよ」


 溌剌はつらつとした笑みからすぐに彼女の正体に思い至った。

 つい最近この離宮へやってきたばかりの専属厨師だ。

 しかしすぐに「脱水症っぽいですね」と言われて凌白はきょとんとする。


 たしか自分は、庭を散歩しようと思って久々に寝台から降りたはず。

 そうやって外へ出たとき強風にあおられ、急に視界が暗転して――。


 しばしの逡巡しゅんじゅんの後、ようやく自分が倒れたことを思い出した。

 そうか、だから自室に寝かされていたのか。


 そのとき彼女はふと手を放し、背後の机に置かれた皿を手に取った。

 その上に乗ったものを見て、無意識に心臓が縮み上がる。


「殿下、すこしだけでも召し上がりませんか? 殿下のお口に合うように味つけを変えてみたんです」


 それは、食べやすい大きさに切られたもちのようなものだった。

 突然、電気でも走ったかのように体がこわばる。


 食物を見て体が拒否反応を起こす状態は、もうずっと続いていた。

 だから倒れた理由も本当はわかっている。

 ここ最近、まともに栄養を摂取できていなかったからだ。


「あ、そっか。まず毒味しなきゃいけなかったですね」


 しかし彼女は自分の沈黙をどう解釈したのか、皿の上のもちに手をのばした。

 ひとつつかみ取ったかと思えば、そのままがぶりとかぶりつく。

 凌白は動くこともできずに、しばらくその姿をじっと見つめていた。


 ――うわあ。なんておいしそうに食べるんだろう。


 彼女はその見た目に反して、なんとも豪快ごうかいで気持ちのいい食べっぷりだった。

 もちをひとつぺろりと平らげると、次はあつものわんに注ぎ、さじですくい取って口に運ぶ。


 いつもは侍女たちが毒味をしてくれていたので、こんな姿は初めて見た。

 彼女の手先を夢中で見つめているうちに、皿と椀が目の前に差し出される。


「さあ、どうぞ」


 今さらいらないなどとは言えない。

 凌白はぎゅっと目をつぶり、試しにまだほかほかとあたたかいもちに歯を立ててみる。


 すると、ひどく舌になじむ味が広がった。


「あ……これ」


 ――母上の、味だ。


 頭をなぐられたような驚きと同時に、どうして、と純粋な疑問が浮かび上がった。

 もう二度と、食べられないものだと思っていたのに。


 信じられない思いで、もうひと口かじってみる。

 外側のもちはもっちりとした弾力のある食感に、こんがりと焼き色のついたところが香ばしい。

 中心にはねぎをたくさん使った山菜のいためものがたっぷり挟まれていて、独特な香味を含んだ後味がすっと鼻へ抜けていった。


「おいしい……」


 ここ最近は最低限の栄養をとるためだけに食事をしていたから、本当においしいと感じたのは久しぶりだった。


 続いてとろりとした羹のほうを口にすると、細かく刻まれた豆腐になめらかな汁がからんで大変飲みやすかった。

 一瞬で熱がじわりと体の全身へ染み渡っていく。


 ふと顔を上げると、ずっと自分の食べるようすを見ていた彼女が優しい微笑みを浮かべていた。


「気に入ってくださいましたか?」


 言われた途端とたん、ぎゅうっと胃袋をわしづかみにされた気持ちになった。

 腹の奥底から渇望かつぼうが、久しく思い出さなかった欲求が湧き上がる。


 お腹が空いた。もっとたくさん、これを食べたい。

 ああ、空腹とはこんな感覚だったのか。

 久しく思い出さなかった感覚に、腹が切なく鳴き声を上げる。


「う、うん……もっと、ほしいかも」

「ふふっ、たくさんありますからね。それじゃ、おかわり準備してきます!」


 恥ずかしくて顔を赤くする自分に満面の笑みを見せ、彼女は元気よく飛び出していった。


「おかしな厨師だな……」


 羹のせいかじんわりと熱を帯びる胸の内を誤魔化すように、口からそんな台詞せりふがこぼれ出た。


 ◆ ◇ ◆


「お前、何を盛ったんだよ」


 厨房へもどると、いったいどこから現れたのか、窓から顔をのぞかせるワンちゃんが半眼で私のことをにらみつけていた。

 実に数日ぶりの再会だ。


「失礼ね、毒みたいな言い方しないでよ」

「あの皇弟が飯を食ったんだぞ」

「なんだ。ぜんぶ見てたのね」


 「じゃ、あんたがその目で見たとおりだわ」と私は作業にもどる。

 今まで私がピンチのときも助けてくれなかったから、てっきり死んだのかと思った。


 無視してお皿に料理を盛りつけていると、がしっと左腕をつかまれる。


「おい――」


 私はすかさず、彼の口のなかにピンをひとかけら放りこんだ。

 もぐもぐと黙って咀嚼そしゃくしていた彼の顔が徐々に苦悶くもんゆがんでいく。


「辛っ!? なんだこれ! こんなもん病人に食わせていいのかよ!?」

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