拾弐 天才、秀才、奇才に凡人


 それは、核心をついた質問だったに違いない。


 笑みを消したワンちゃんからさらに、おちゃらけた空気も消え去る。

 ぞくり、と心臓をわしづかみにされたときのように背筋に冷たいものが走る。

 次の瞬間、またたきする間もなくすっと顔面に指先が迫り――ピンと額を弾かれた。


「痛ぁっ!? なにすんのよ!」


 ふつうのでこぴんならまだしも、相手は武人だ。

 激しい痛みの余韻よいんに、私は水を失った魚みたいにしばらくもがき苦しむ。

 そんな私に清水しみずをかけるがごとく、彼はさとす。


「偉い御仁の心の内は伏魔殿ふくまでんだ。開けない方が幸せだってこともある」


 いやにやわらかい口調だった。


「俺様はただの護衛だ。そんなこと知らないし、知りたくもない」


 汪ちゃんはニカッと白い歯を見せて笑った。

 これは本音なのだと。だから、これ以上先に踏みこんでくれるなと。

 それが彼なりの優しさだってことを、当時の私は気づくよしもなかったけど。


 やがて正殿の前でずっと立ち話をするのも気が引けてきて、私はあきらめ混じりのため息をついた。


「まあいいわ。こんなこと考えてても時間の無駄よね。まずはこの宮廷きゅうていデスゲームで生き残るための策を考えないと」


 今の私を突き動かす原動力は危機感だった。

 今のままじゃ、私は確実にに負けてしまう。

 宮廷内に引かれた水路に沿って歩きながら、私は必死に知恵をしぼってみる。


 名前も知らない貴族に下賜かしされるのだけはごめんだ。

 料理人としての名に一生笑いものにされるような傷がつくし、きっとそこでは私の望む自由な美食の追究が許されてはいない。

 一生籠にとらわれた鳥みたいな扱いを受けるのは絶対にいやだ。


 しかし宮廷内は男尊女卑だんそんじょひの世界。

 任命式に集まった宮廷厨師ちゅうしは新人、古参を問わず男性が多かった。

 宮廷の厨房内で重要な役割を任せられているのも、ほとんどが男性厨師だと聞く。


 そのなかには、もとから仙獣せんじゅうと契約関係にある食仙しょくせんもいれば、そうじゃない人もいるだろう。

 前者はすでに資質ありと認められているわけだから、青龍が気に入る可能性は十分にある。

 反対に、今まで己の素質に気づかなかった厨師が極限状態で突然開花することもある。


 私は圧倒的不利な女性という立場で、おまけに食仙になる資質もないときた。

 これは……もはや万事休すなのでは?


 そのとき、「ちょっと耳貸せ」と周りをきょろきょろと気にしていた汪ちゃんが私のすぐ隣に並んだ。


「俺様は料理人じゃないから、厨師のことはよくわからねえ。だが、ずっと宮廷にいたから特に腕が立つやつくらいはわかる」


 さらに声をひそめ、私の顔の前で指を三つ立てる。


「お前がこの死線をくぐり抜けるために特に注意しておくべき人物は三人いる。『天才』のきょう梅香ばいこう、『秀才』の李平りへい、そして『奇才』の金晃きんこうだ」


 その三人はいずれも新人ではなく、もとから宮廷にいた大厨師なのだそうだ。


 一人目の『天才』、姜梅香は生まれ、技術、資質のすべてを高い水準で持って生まれた天の寵児ちょうじ

 宮廷内で強大な実権を握る姜一族の娘だが、若くして卓越した調理技術を認められ、女性でありながらも厨師長ちゅうしちょうを任されている。

 さらには非常に強力な仙獣、望天吼ぼうてんこうの仙力を自在に扱える厨師長のなかでも唯一の食仙だ。


 二人目の『秀才』、李平はド田舎の商家の息子から厨師長にまで成り上がった強者つわもの

 腕前はもちろんのこと、食材の見極めに長けていて、どんな料理でも美味しく仕上げることができるのだという。

 『天才』と言われる姜梅香に引けを取らない高い調理技術の持ち主だ。


「特に気をつけるべきなのは『奇才』だ。あいつに関してはよくわからねえことが多すぎる……」


 そして三人目の『奇才』、金晃。

 数年前、新人厨師を選抜するための試験において、先帝が面白半分に出した難題を唯一突破することができたのが彼だという。

 その難題とはなんと「龍の肉を使った料理」を作れというもの。


 龍は蘇国を象徴する仙獣だ。

 仙獣のなかでも群を抜いて霊妙な存在であり、そもそも人前でめったに姿を見せることはないから、だれも龍肉で料理なんて作ったことないし作れるはずもない。


「だがな、そいつは先帝の前で自信たっぷりに言ったんだよ。『僕なら陛下のお望みを叶えられますよ』ってな」


 そうして完成した料理の名は龍鳳燴ロンフォンフイ

 なんと『奇才』は龍だけでなく、同じく強大な仙獣と言われる鳳凰もいっしょに調理してみせたというのだ。


 真偽はともかく、先帝はたいそう彼の料理を気に入ったそう。

 それからは、だれも思いつかないような奇想天外な美食でたびたび皇帝や妃嬪ひひんたちを喜ばせ、一気に厨師長の座に上りつめることとなった。


「なんだか雲の上の話をされてるみたい……」


 この三人こそ、蘇国随一の才能を持った料理人。

 宮廷にやってきたばかりの新人厨師は、基本的にはいずれか三人の厨師長のもとで修行をしてから、晴れて一人前の宮廷厨師として仕事をもらえるようになるんだとか。


「ところで、お前も一応は宮廷厨師として務めることになったんだろ。どこの配属になったんだ?」

「えーっとね……」


 私はさっき任命式で受け取ったばかりの真鍮しんちゅうの玉を彼に見せた。

 磨き上げられた黄銅おうどうに映る汪ちゃんの両目が、ゆっくりと見開かれていく。


凌白りょうはく殿下の専属厨師、ですわね」


 そのときだ。

 突然背後から鈴を転がしたような声を投げかけられ、私はびくっと盛大に飛び跳ねてしまった。


 ふり向けば、そこには胡蝶蘭こちょうらんを連想させる凛とした立ち姿の女性が。

 私はすぐに思い当たる。

 任命式のときに、迷わず挙手をしたあの女の人だ。


「ごきげんよう、ろう将軍。少しよろしくて?」

「これはこれは姜厨師長殿。いかがなさいましたか?」


 汪ちゃんはすぐさまよそ行きの仮面を顔に貼りつけ、にこりと姜厨師長――『天才』姜梅香へ微笑みかけた。

 それはもう、とびっきりの好青年っぷりで。


 流し目で見つめられ、姜厨師長の後ろで控えていた取り巻きたちがほうっとため息をつく。

 ああ、完全にあの笑みにだまされているわね。

 そんなことよりも。


「凌白殿下、って……」


 私は遅れて、違和感に気づく。


 その名はたしか現帝の弟君のものだ。つまりは皇帝陛下の異母兄弟。

 そんな高貴な御仁の専属厨師に、新人の私が?

 私は説明を求めて汪ちゃんを仰ぎ見ようとしたけど……。


此度こたびの新人は粒ぞろいですわね」

「ええ、そのようですね」


 彼は姜厨師長とのんきに話をしながら、すでに私の前を歩いていた。


「え、ちょ、ちょっと……」


 しかし後を追おうとした私にだけ見えるように、彼は背後に組んだ手でしっしと払うような仕草をする。

 先に行け、と言われているような気がした。


 しかたなく、私はふたりとは別の方向へつま先を向けた。

 こうなったら、近くにいる見張りの兵にでも道を聞くしかない。

 とぼとぼと歩を進めていたとき、複数の宮女たちが私のほうを見ながらなにやらささやき合う声が聞こえてきた。


「あの子、新しい専属厨師らしいわよ」

「かわいそうに……」

「今度はいつまで持つのやら」


 憐れむような、笑いを堪えるような声音に私は眉をひそめる。

 いったいどういう意味?

 宮廷の内情をなにひとつ知らない私は、反論することはおろか彼女たちの言葉の意味を理解することすらできなかった。


 周りをぐるりと見渡せば、通りがかった関係のない人たちまでなんとも言えない視線を私に向けている。

 なんだか落ち着かない。

 ぞわりと背筋をひとなでされたような居心地の悪さに、その場から離れようとしたときだ。


「きっ、きゃああああ!? だ、だれかっ……」


 甲高い悲鳴が耳に届き、私は反射的にその方向をふり向いた。

 少女と呼べる年の宮女が、きれいに整えられた石楠花しゃくなげの茂みの前で腰を抜かしている。

 その視線の先には、なんと一匹の蛇が。


 とっさに駆け寄ろうとした私は、細長い生物を見て無意識にブレーキをかける。

 私のなかで蛇はからすと同じくらい不吉な印象のある生き物だったからだ。

 実際に私の人生がなにもかも狂ってしまったのは、蛇に出会ってからだったし……。


「ひいっ……」


 けれどもそう考えているうちに、長い影は刻一刻と少女に迫っていく。


 ああもう、どうにでもなれっ!

 腹をくくり地面を蹴った私は、すかさず木の枝を拾って蛇に投げつけた。

 もとの世界で狩りやら害獣駆除やらの経験があったおかげで、投擲とうてき能力はそれなりに優れている。


 力任せに投げたのにもかかわらず小枝は見事に命中し、蛇はしゅるしゅると身を縮ませて茂みのなかへ姿を消した。

 私はしりもちをつく宮女にすっと手を差しのべた。


「大丈夫? 立てそう?」

「あ、ありがとうございます! 助けてくださって! そ、その……蛇、怖くないんですね」

「まあね。田舎に住んでたから、生き物には慣れてるのよ」


 少女は落ち着きを取りもどすと、まだ幼さの残る話し方でたどたどしくお礼を述べた。

 私は床に散らばった上等な衣をすべて拾い上げ、ひとつずつ手渡す。

 衣服を司る部局からおつかいを頼まれていたところでちょうど蛇と出くわしたのだと、彼女は気恥ずかしそうに言った。


「私、春桃しゅんとうって言います。ふだんは宮廷の雑用をしています。それにしても……このあたりにも蛇って出るんですね。びっくりしました」

「だれかが管理してくれてるはずなんだけどね……」


 宮廷内の草花を見る限り、手入れ自体はまんべんなく行き届いているようだ。

 おそらくあの蛇は、どこからか迷いこんできたんだろう。

 蛇も入りたくて宮廷に入ってきたわけじゃないと思うけど……。


「え、ええっと、厨師さま……ですよね。どちらの所属ですか?」


 無意識のうちにぼんやりとしていた私の顔を春桃がのぞきこんだ。

 私は自分が新人厨師でちょうど道に迷っていたことを伝えると、彼女は自ら案内役を買って出てくれた。

 移動のために舟に乗った私たちは、みずみずしい若葉のにおいをたっぷり含んだ風に吹かれながらたくさんおしゃべりをした。

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