二枚目 桜模様のハンカチ

「あのぅ、大丈夫ですか?」


 その声は綿花のようにふわふわとして温かかった。青年は声を掛けられて初めて、自分の隣に人が立っていたことに気付いた。白いコートに紺色のマフラー。顔は見なかった。


「はい。大丈夫です、すみません」


 青年はコートの袖で涙を拭う。ウールのコートは水を弾きゴワゴワとして痛かった。青年はこれを目の周りが赤くなったことへの言い訳にしようと思ったが、目の前に差し出された桜模様のハンカチを見て、既に手遅れであることを悟る。


「ありがとうございます」


 青年は静かにハンカチを受け取り目に当てた。途端に、嗅ぎ慣れた刺激臭が鼻腔を突き刺し、感傷が断ち切られる。


「うわっ」


「ご、ごめんなさいっ。涙を拭けそうな物がそれくらいしかなくて。やっぱり臭かったですか? ……すみません」


 桜の柄だと思ったものは薄桃色の油絵具だった。油絵具を拭いた布。人にこんな物を使わせるなんて、一体どんな奴なんだと思って見れば、知った顔だった。青年自身は殆ど話したことはないが、画塾で天使と呼ばれているのは知っている。


 栗色の髪の毛は天使の輪が出来そうな程艶があり、紺色のマフラーに掛かるセミロング。可愛い系の幼顔は確かに天使を思わせる。しかし、彼女は容姿で天使と呼ばれているわけではなかった。神々しいまでの画才の持ち主、すなわち絵画の天使――神泉しんせんましろ。


 並の画塾生は彼女に嫉妬し闘争心をたぎらせる。それを受けつつ尚もふかふかの綿わたのような心でいられる(そのように見える)彼女に、青年は敬意を抱いていた。嫉妬は? そんなものはなかった。嫉妬心を抱く程、自分が彼女に近い存在だと思ったことはない。彼女はそれ程までに尊い絵を描いた。


「神泉ましろさん」

「はい。こんにちは、ゲンゾーさん」


 彼女は線路を見つめながら優しい声で青年の名前を呼んだ。名前を(しかも下の名前を)覚えられていることに少し心が上擦った。これは恋とは別の感情。尊敬する人の目に自分がひとカケラでも映っていたことを知った喜び。


 凍つく線路を見て話す。


「神泉さんは合格だったでしょ」

「……はい」

「おめでとう」

「ありがとうございます」


 二人の口許が交互に白い息で包まれた。


『間もなく電車が参ります。危ないですから、白線の内側までお下がりください』


 線路の中で黄色いランプがクルクルと回り出す。


「来年……会いましょう? 大学で」


 青年は苦笑を漏らす。


「それは慰めてくれてるの? やめといた方がいい」


 わざと皮肉って言った。分からせることは尊敬する画家に、この、人の醜さに鈍感な天使のためになると考えた。次の一言を加えればさっきの一言は毒じゃなくて薬になる。


「僕以外の落ちた奴に同じことを言うのは、やめといた方がいいよ。相手によっては神泉さん、あんた、殺されてしまうからね」

 


 神泉ましろのハッとしたような顔。


 薄茶の瞳が潤んで、ぷっくりとした桜唇が微かに開いた。寒さでほんのり赤くなった鼻先。絹のように滑らかに曲線を描く輪郭。そしてやはり綿花のようなふわりとした頬。


 それが、青年の目に焼き付いた、生きた彼女の最後の顔だった。


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