第44話 手の内の独楽

 美晴が殺人を犯すに至ったのには、二つの要素があった。一つは美晴の人格だ。機が訪れたならカーストの中心人物である香澄を亡き者にしようと、虎視眈々と目論んでいたに違いない。そう考えるのは、幼少時代の彼女の家庭内事情を知っているからだ。

 美晴は父親である康雄から虐待を受けていた。彼は父親として、間違いなく美晴を愛していたのだろう。しかし、どれほど年齢を重ねても常識というものを身に付けられなかった彼は、頻繁にではないものの、不愉快なことがあると美晴や妻に暴力を振るうことで気を鎮める悪癖を持っていた。粗削りで頑なに自分の非を認めない彼は、近所でも悪評が囁かれていた。

 康雄から生かさず殺さずの嬲るような生活を強いられた美晴の性格に、徐々に歪曲が生じていった。あの時から、美晴の人格は徐々に歪み始めていたのだ。不格好な容器の中で育った果実が、その型通りの歪な形に成熟してしまうように。

 人というのは普通、不快なことや憤る経験をしたら、言葉態度に表れるものだ。自制心が強く無言を貫く人でさえ、近寄りがたい剣呑な雰囲気を醸し出す。美晴にはそれがなかった。どれだけの悪意に触れても、ストレスを溜めない朗らかな性格だと思われ、香澄はそこにつけ込んだ。しかし、とんでもない誤認だった。溜め込まないのではない。まったく表面には出ないほど、深く深く、精神の深層まで沈ませていただけなのだ。だからこそ、すぐに怒鳴ったり暴れたりする薄っぺらい人間よりも、何倍も恐ろしい。

 そして、限界値を超えた時、最悪の解決法に至る。彼女の場合、邪魔な者は排除すれば良いと考えるようになったのだ。大きな風船ほど、膨張に耐えきれず破裂した時の衝撃が大きいのと一緒で、怒りが表面化した時の美晴の凶暴性は凄まじいものだった。冷静さを維持したまま、知力体力を駆使して復讐を実行する。自分に疑いの目が向けられないよう、奸智を発揮する狡猾さも備わっていた。もはや人の姿をした怪物。普段は笑みを湛えて民を見守っていても、掟に背いた途端に冷酷な罰を与える女神だ。回想すると、康雄の突然の死だって出来過ぎに思える。きっと表沙汰にはならなかった裏の真相があるのだ。

 もう一つはガムたちの登場だ。彼らは美晴が待ち望んでいた機を与えてしまった。彼女としても、ほとんど突発的な行動だったのだろう。辛うじて堰き止めていた理性の結界が、ガムたちの乱入により、いとも容易く崩壊してしまった。

 あの状況下で殺人が起これば、犯人はガムかチョコと考えるのが自然の成り行きだ。美晴自身が言っていた、罪を擦り付けたかったというのは推測ではなく、彼女の本音そのものだったのだ。しかし、そうはならなかった。恭太郎のニアのせいで、美晴の計画は瓦解した。さぞかし驚いたことだろう。ニアのことなど、すっかり失念していただろうから。恭太郎自身、自分の能力を忘れていた。一般人が死体に触れる機会など滅多なことでは訪れないのだから、無理もなかった。

 さらに彼女にとって不運なことに、犯行を葉子に目撃されてしまった。

 葉子は美晴と同じシュードラであったし、どんな形であれ、香澄がいなくなったので溜飲が下がる思いだった。実際に手を掛けた美晴に感謝すらしたかも知れない。虐げられていた者同士、仲間意識があったのか、葉子は美晴にすべてを知っている上で秘密を共有すると持ち掛けたのだ。

 しかし、葉子も美晴の人間性を見誤った。口約束だけでとても信用できない。いつ裏切るかわからないし、本人にその気がなくても口が滑ってしまうことなどよくあることだ。

 邪魔な存在は排除してしまえばいい。

 だから、美晴は葉子も殺すことにした。

 今度は、厄介な事態となる流れを発生させた恭太郎のニアを利用しようと考えた。それが、千都留と葉子の入れ替えだ。

 入れ替えといっても難しいことなどなにもない。恭太郎を葉子の所に誘導するだけで済んだ。彼が葉子の死の真相を追及することは確実だったし、映像は一度しか見られないと知ったことも、美晴の決断に拍車を掛けた。今度こそ、本当に計画的な犯行だ。

 恭太郎は期待通りの勘違いをしてくれ、犯人はチョコであると供述した。恭太郎の正義感は、美晴の手の内で踊っていただけの独楽に過ぎなかった。まさに独りで回っていただけだったのだ。

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