第42話  碧羅の天

 最初に思い浮かべるのは、どうしても手だ。チョコの包帯を巻いた手と比較してしまうので、もっとも印象に残っている。手よりも顔が見えていたなら、問題はすぐに氷解したのに。


「………………」


 疑問を解くために、別の疑問が持ち上がった。

 どうして顔が見えなかったのだろう?

 心臓が大きく跳ねた。頭が熱を帯びる。今、自分は重要な岐路に立っている。なにがどうと説明することはできないが、鼓動の速さが訴え掛けている。焦らず慎重に熟考しなければなさないと、勘が告げている。

 逸る気を抑えるため、再びコーヒーを口に含んだ。

 単純に、室内が暗かったからと考えるのが自然だが、常夜灯は点いていた。香澄の視力が悪いからといって、誰だったかまったく見当も付かないものだろうか。

 もっと思い出せ。なにか見落としていることがある。もっと、あの時見た映像を脳内に再生するんだ。

 恭太郎は眉間にしわが寄るくらい、固く目を閉じた。シルエットになった犯人以外、部屋に異常はなかったか。なにか、犯人の顔が完全な影になる要素があり、自分は確かにそれを見たのだ。犯人、右手、影、光……。


「………………っ‼」


 恭太郎は、かっと目を見開いて立ち上がった。持っていた缶コーヒーが波立ち、飲み口から零れ、ジーンズに染みを作った。

 光。そうだ。なんでこんな単純なことを思い出せなかったんだ。映像では犯人の背後から光が漏れていた。薄暗いうえに逆光があったがゆえに、犯人が見えにくくなっていたのだ。あの時、僅かに扉が開いていた。おそらく、香澄の位置を確認するために光源が必要だったのだ。部屋の電灯を点けるわけにはいかなかったから、犯人が敢えて閉じなかったのだろう。そして、扉が開いていたことで浮かび上がる可能性が一つ浮上する。


「目撃者がいたんだ……」


 あの殺人劇を目撃していた者がいた。ならば、なぜその者は真犯人を告発しなかったのだろう。危害を加えられるからか? いや違う。犯人を特定できなければ、全員殺される状況だったのだ。そんな極限状態で犯人を怖れるはずはない。怖れではないとしたら、他に犯人を庇う理由など……。


「ん?」


 今、自分はなんと言った? 庇う。そうだ。庇うと言った。目撃者は自分ではなく、犯人を守っていたのか? つまり、目撃者にとって香澄の殺害は許容の行為だった。殺害された者ではなく、殺害した方の味方に付く理由などあるのだろうか。あったとしたら、相当に根深い背景が隠されていることになる。

 思考が深淵にまで沈んでいるのに、雑音が邪魔をした。舌打ちをしながら目だけを左に動かし、視線を移動させた。

 隣に座っていたカップルが場違いに談笑している。公園内なのだから、場違いと考える恭太郎が自分勝手なのだが、考えがまとまらない焦燥が、八つ当たりに姿を変えた。

 とても仲が良さそうにお喋りを楽しんでいるのが余計に腹立たしく、耳を塞ぎたかった。聞くまいと意識するほど、二人の会話が耳の穴に流れ込んできた。

 うるさい。黙れよ。

 解決を求めるあまり、道徳を捻じ曲げている。今の恭太郎の心の声を聞いたら、カップルは間違いなく憤るだろう。幼少の頃、自宅前の公道で洗車していた父に怒鳴りつけてきた、美晴の父親、康雄を思い出した。

 彼はどうして死んだんだっけ? そんなことは今はどうでもいいだろう。考えに集中しろ。


「昨日と同じセーターじゃん」


 うるさい。


「違いますぅ。別のセーターだもん」

「嘘つくなよ。クリームだか白だか、なんていうか知らないけど、まったく同じ色じゃん」


 うるさいんだよ。どうでもいいだろ。そんなこと。


「よく見なよ。模様が違うでしょ。ニッティングパターンっていうんだけど、編み方が昨日のとは違うの」

「わかんねえよ。そんなの。ぱっと見変わらないんなら、意味ないっての」

「だから、あんたは駄目なんだよ。モテない男の典型」

「なんだよ。それ」


 憎まれ口を叩き合いながらも、二人は楽しそうに笑っている。よほど気の置けない仲でなければ、こんな会話はできない。

 普段なら微笑ましさと嫉妬が入り混じった気持ちが充満するのだが、今の恭太郎はまったく違うことを考えていた。

 ぱっと見が変わらないなら気づかれない。あの時、千都留と葉子は似た服を着ていた。しかも、頭部の損壊に至っては、残酷過ぎてろくに見ていないし、千都留の方はニアすらもしていない。

 落雷のような、一閃の光が差し込んだ。固く閉ざされていた門が、突然開かれた。思考の激流が脳内に満ちていく。

 特殊な能力を持っているがゆえ、警察よりも真相に近づいている錯覚に陥っていた。逆だ。自分はなにも見えていなかった。

 一度もたげた推理は、瞬間的に定着し固定された。もう、これ以外の解答を導き出すことは不可能だった。


「こんなことが……。くそっ。まさかっ。あり得ない。ああ、ちくしょうっ」


 体が重たい。たどり着いた結論に押し潰されて、立ち上がるのも億劫だ。

 隣でじゃれ合っていたカップルは、人目を憚らず独り言ちる恭太郎に不審な視線を投げて、どこかへ立ち去った。好奇心と気味悪そうな感情が入り交じっていたが、そんなものを意に介している余裕はなかった。


「この能力は、神様からのプレゼントなんかじゃなった。呪いだったのか……」


 碧羅の天の下、その場には恭太郎ただ一人だけが佇んでいた。

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