第40話 時が止まり運命が動く
尖頭状のガラスの塊で殴打されたら、ひとたまりもない。チョコは叫び声も上げずに、膝から崩れ落ちた。人に時を告げるべく刻み続けている時計が、チョコの時を止めてしまった。
力が抜けて、膝から下の感覚が覚束なくなる。しゃがみこまないでいられるのは、膝の関節が麻痺しているからに過ぎない。
「美晴……なんてことを」
「……でも、恭太郎を守るには、こうするしか……」
消え入りそうな声を聞き、恭太郎は違うと思った。そして、彼女から時計を奪うと、倒れているチョコの頭頂部に、正確には美晴が殴打した箇所と同じ位置に振り下ろした。
「恭太郎っ?」
「逆だ。守るのは僕だ。僕が美晴を守るんだ」
「恭太郎……」
「きみが殴った時点では、チョコは死んでいなかった。気を失っただけだ。そこに僕がとどめを刺した。また立ち上がってくるんじゃないかとビビってね。チョコを殺したのは僕だ。僕がやったんだ」
表で車のエンジン音がした。二人揃って視線を移す。パトカーが空いている駐車スペースに停まるところだった。
恭太郎は凶器となった時計を床に落とした。ゴトッと重たい音がした。絨毯越しでも床を傷つけたかも知れないが、どうでも良いことだった。
「行こう」
玄関に向かう恭太郎の手を、美晴はそっと握った。
ドアホンが鳴らされた。押っ取り刀で到着した警察官が立っている姿が容易に想像できた。親機では対応せず、直接扉を開けた。
玄関には二人の警察官が立っていた。ひどく緊張した面持ちだ。通報の内容も、充分警戒を強いるものだったが、恭太郎と美晴、二人から発せられる異様な剣呑さが、警察官の危険信号を灯したのだろう。
「……こちらで、人が死んでいるとの通報があったのですが……」
話し掛けてきたのは、年配の警察官だった。恭太郎の親くらいの男性だったが、屈強な体格をしている。喋りながらも、素早い反応ができるよう、体を若干前屈みにしている。両足もずらしており、前後左右に動ける立ち方だ。彼より若く、二人より十歳くらいしか違わない方は、無言で恭太郎たちを凝視している。
恭太郎は、険しい表情を見せたクロオビを思い出した。彼はまだ警察官を続けているのだろうか。
「入ってください。事情の説明は、現場を見て頂いてから……」
年配の警察官は、用心しながら屋内に入った。若い方の警察官に先に行くよう促され、二人も続いた。警察官に前後を挟まれる形になった。明らかに、二人に対して警戒している様子だ。
リビングに通じる廊下を進んでいる途中から、二人の警察官の表情がどんどん険しくなっていった。もはや魔窟と化した屋内の雰囲気に圧倒されて、本能が警戒音を発しているのが、恭太郎にも聞こえた。
那須はリビングに一歩足を踏み入れたが、そのまま硬直して動けなくなった。真っ先に思い浮かんだのは、現場保存の文字だった。
「いったい……」
喉の奥からやっと絞り出した声は、震えを抑えるために硬化していた。那須のただならぬ様子に、山本は首を伸ばして通報者越しにリビングを見た。
「うっ!?」
そこは地獄絵図だった。四人もの男女が無造作に転がっている。いずれも血に塗れて、ピクリとも動かない。絶命しているのは一目瞭然だった。
山本は呼吸を止めた。これまでも、血生臭い事件を経験したことはある。だが、ここまでのものは初めてだ。自分たちの手に余ると、即座に判断した。そして、息を止めたのは、嗅覚ではなく感覚に訴える死の匂いを断絶したかったからだと気づいた。
「あの……」
男の方が遠慮がちに口を開いた。まだ若い。大学生か、社会人でも一〜二年経たばかりと思われた。大人しそうなのに、彼の全身からは尖った針が何本も突き出ているように感じた。まるで威嚇している時のハリネズミだ。
「あ?」
想像以上の異常事態に、思わず返事が乱暴になってしまった。
「二階にも……一人……」
「なんだと?」
那須は驚愕しながらも、目で山本に確認しろと命じた。
山本も無言の指示を敏感に読み取り、即座に階段を駆け上がった。仕事を遂行しなくてはならないという義務感がなければ、これほど俊敏には動けないだろう。
間もなく、二階から山本の怒鳴り声が聞こえた。
「いますっ。若い女性です。こっちは出血は見られません」
那須は改めて、二人の落ち着きのない顔を凝視した。
「いったい、なにがどうなれば、こんなことになるんだ?」
ほとんど独り言に近い那須の問いにも、二人は無言で俯いているだけだった。
焦れ込む警察官の視線をまともに浴びて、恭太郎は森の中にも二人の死体があることを知らせるタイミングを考えていた。
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