第39話 死に近すぎて

 別荘まで帰るのに、出る時の倍近く時間が掛かった。チョコが木の陰に隠れていて、こちらを狙っているのではないかと想像すると、脚の運びがどうしても慎重になったからだ。

 ようやく建物の前まで着いた時には、体力よりも精神力の方が消耗が激しかった。


「まだ警察は到着していないね……」


 それは一目瞭然でわかった。表にパトカーが停まっていないからだ。こんな森の奥深くまで、徒歩や自転車で来るはずがない。


「中で待っていよう」


 死体が何体も転がっている屋内に入るのは気が重たかった。しかし、背に腹は変えられないという言葉がある。チョコが徘徊している外で待つ気はなかったし、吹く風は遠慮がなく汗を瞬く間に冷やしていった。

 それでも、美晴は恭太郎より感度が鋭いのか、入ることを嫌がった。目に飛び込む光景も退けたくなるが、それ以上に匂いを嫌忌するのだという。


「あの匂いがどうしても駄目。死をリアルに感じてしまうの」

「……わかった。車の中で警察を待とう。鍵は僕が取ってくるから、風の当たらない所で待ってて」


 美晴を玄関ポーチに立たせて、恭太郎は中に入った。リビングには孝之たちの死体が横たわったままだ。一歩進むのにも気を奮い立たさなくてはならない。

 なにか嫌な予感がした。脚が硬直して立ち止まる。死が充満している空気に当てられ、精神が過敏になっている。

 外で美晴が待っているのだ。いちいち気後れしている場合ではない。なるべく死体を見ないようにしよう。そう思い、視線を床に固定して進んだ。しかし、車の鍵は一つはガム、もう一つは俊哉が持っているはずだ。どっちにしろ、死体を漁ることになる。

 俊哉の死体には触っていないから、触れた途端にニアが発現してしまう。だから、彼から鍵を拝借するのはやめておく。ガムは孝之から鍵をもぎ取ってからどうしたんだったか? たしか、無造作にポケットに突っ込んだ気がする。ガムはうつ伏せに倒れているんじゃなかったか……。

 不安を紛らわすためにあれこれ考えるが、結局のところは怖れを濃厚にする想像に帰結する。恭太郎は考えるのをやめた。

 リビングに足を踏み入れた。いくら視線を逸らそうと、三人の死体は恭太郎を逃さなかった。待ち構えていたかのように、目に突き刺さってくる。

 絡みつく怨念を引き剥がし、ガムから鍵を取ろうと前進した時、背後から話し掛けられた。


「動かないで」


 あまりにも突然のことだったので、動くなと言われたにも関わらず、体が勝手に反応してしまった。


「うわっ!?」


 振り向くと、チョコが立っていた。散弾銃の銃口は、しっかりと恭太郎を捉えている。扉の陰に隠れていたので、見逃してしまった。恭太郎が入って来た時に気配を感じ、身を隠したに違いない。

 恭太郎は舌打ちしたい気分だった。屋内に入った時、嫌な予感がした。あれは肌で危険信号を察知していたからだったのだ。もっと自分の勘を信用すればよかったと後悔した。


「よくもガムを殺ったわね」


 一度は見捨てようとしたくせに、どの口が言うのか。不思議なもので、先程までの怯えは鳴りを潜めて、恭太郎は落ち着いていた。極限状態まで追い込まれて、却って肝が座った。


「……あんただって殺しただろ」

「あれはっ」


 チョコは大きく息を吸い込んだ。


「……あれは事故よ。殺すつもりなんかなかった」

「二人も殺しておいて、言えたことか」

「二人? いったいなんのことよ」

「ここまできて、とぼけるなっ」


 激昂する恭太郎に、チョコは改めて銃を構え直した。いざとなったら撃つという意志表示だ。恭太郎の内側に耳障りなほどの警鐘が鳴った。脅しではない。既に二人も殺めている彼女なら、躊躇なく引鉄を引けるだろう。


「それで僕も殺すのか?」


 恭太郎は、敢えて撃つではなく殺すと言った。チョコが圧されたように表情を引き締める。


「お望みならね」

「殺したきゃ殺せ。もうすぐここに警察が来る。あんたは、もうお終いなんだよ」

「逃げ切ってみせる」


 チョコは虚勢を張りながら外の様子を窺った。美晴はリビングの窓から死角になる玄関前に立っている。そのことだけは胸を撫で下ろした。

 銃声が響けば、なにが起きているのか察するはずだ。美晴は慌てて駆け込む愚など犯さず、一目散に逃亡するだろう。だが、それでいい。それが、もっとも美晴を安全に逃がす手段だ。もっと望むなら、ここに向かって来ているであろう警察に保護されてくれれば、言うことなしだ。

 銃口を向けられていうというのに、不自然なほど心に波が立たなかった。心臓は熱く脈打っているのに、頭は冷えている。自分の思考を分析する余裕すらあった。

 この静けさは、おそらく覚悟を決めたからだ。覚悟とは悟りを覚えると書く。もう死を受け入れてしまっているのだ。なんのことはない。覚悟とは諦念の境地に過ぎなかった。

 死を受け入れるなんて、生存本能に反する。まだ続くはずの人生。やりたいことはまだまだ残っている。行きたい場所。やりたいゲーム。食べたい料理。読みたい小説。美晴と共有したい時間。それなのに、反撃する気合いが湧いてこない。何人もの死を疑似体験したことで、頭がどうにかしてしまったのだろうか。

 美晴。きみだけは生き延びてくれ……。

 思いが幼馴染みに馳せた時、本人が姿を見せたので思わず目を見開いた。いつの間にか屋内に入り、チョコの背後に忍び寄っている。彼女に気取られないように、冷静さ保つのに必死になった。


「拳銃を拾いなさい」

「なに?」


 チョコが言ったことの意味がわからず、訊き返した。その間も、意識は後ろの美晴に注がれている。


「ガムの横に落ちてるでしょ。それを拾いなさいって言ってるの」

「………………」

「言っとくけど、妙な動きはしないでね。私の方はもうあなたに銃口を向けている。どんなに素早く動いても、私が引鉄を引く方が早いから」


 わけがわからなかったが、今は美晴が気づかれないようにするのが優先だ。恭太郎は素直に従い、拳銃を床から拾い上げた。ガムを撃った時の感触が甦り、胃液が逆流しそうになる。


「それで、自分の頭を撃ちなさいな」


 恭太郎はゾッとした。今度は諦念でなく、驚愕で体が硬直した。

 チョコが、悪魔的な笑みを滲ませる。


「そんなに驚かないでよ。見なさい。これだけ死体が転がってるのよ。あと一人増えたところで、どうということはないわ」


 恭太郎はなおも動けない。場を完全に支配している優越感が、チョコの舌を滑らかにした。


「私はなにがなんでも逃げ延びる。そのためには、無駄弾は使いたくないの。協力してくれるでしょ?」


 チョコは勘違いしていた。恭太郎が動けないのは、自らの命を断てと脅迫されているからではなく、彼女の背後で美晴がガラスの時計を振りかぶっていたからだ。昨夜、恭太郎を助けようとしてガムを殴り倒した場面の再現だ。恭太郎が美晴を守ると誓っているように、彼女の方も、恭太郎の危険を排除しようとする際、驚異的な底力を発揮する。

 あれは玄関の飾り棚に置かれていた時計だ。美晴がそれを高々と掲げ、チョコの頭上に振り下ろそうとしている。しかし、あんな物で頭を殴ったら悶絶するだけじゃ済まない……。


「やめろぉっ!」


 恭太郎の懇願も虚しく、美晴は一気に時計を振り下ろした。

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