第38話 手と手
まず飛び込んできたのは、暗く深い緑だった。掻き分けても掻き分けても、途切れることはない。掌や頬に感じる痛みは、草や葉で切れるのもお構いなしに進んでいるせいだ。
恭太郎の苛立ちが頂点に達したのを見計らったように、草むらが潰えた。突然、視界が開ける。だが、森の中にあって、緑がなくなることはなかった。
薄暗くとも空と地の境界線ははっきりと見える。それだけ明るかったから、視野の端に動いたものに、すぐに気づくことができた。
チョコッ!?
一瞬だろうが、見間違えるはずはなかった。葉子と同じく草むらから出てきたのは、逃げた千都留を追って、そのまま姿をくらましたチョコだ。葉子のすぐ前、五〜六メートルの場所に立っている。手を伸ばせば届きそうなほど近くに感じた。
葉子との鉢合わせは彼女にとっても予想外だったらしく、とっさに散弾銃を構えた。続けてなにかを叫んでいるのが見えた。残念ながら、恭太郎の能力は音声までは拾えないので、なにを言っているのかはわからなかった。だが、荒ぶった表情から、必死さや焦燥、それから憤怒が伝わってきた。
チョコの顕わになった感情を隠すように、目の前を両手が激しく交差する。必死に振りかざしている手は葉子のか? そうすれば散弾をガードできると信じているように、一生懸命両手を前に突き出している。
その幼稚めいた行為は、チョコの怒りに油を注いだ。彼女はなにかを喚くと、腰を落として両脚を踏ん張った。本気で撃つつもりだ。チョコは興奮しきって自制が効かない状態まで昂ぶってしまっている。別荘内での余裕は微塵もない。圧倒的に有利な立場だったからできたポーズだったのだ。それとも、隙を衝いて逃走を図るほどの大胆さを持っていた相手を、けっして侮ってはいけないと思い直したか。
葉子の視界がいきなり乱れたと思ったら、チョコが消えて奥深い緑のみとなった。恭太郎は少し遅れて、体ごと反転させたのだと気づいた。つまり、チョコに背を向けたのだ。
逃げるつもりだ。そう思った瞬間、森が揺れるほどの衝撃が襲った。実際には、葉子の視界が揺れているのだ。撃たれた。そう思った時には映像がグチャグチャに歪んだ。そして、暗い闇へと沈んでいった。
遠くに美晴の声を聞いて、意識が浮上していった。彼女の声は悲壮を帯びていたが、それでも耳に心地好い。朝を迎え、微睡みの中で母に起こされる愉悦を噛み締めていたが、今はそんな場合ではないはずだと気づいた途端に覚醒した。
「美晴っ?」
「ああっ、良かった。気がついた?」
「美晴……。僕はどのくらい気を失っていた?」
「ほんの四〜五秒。すぐに起こしてって頼まれてたから」
「そうか……」
恭太郎は、立ち上がって美晴の手を取った。
「恭太郎?」
「すぐにここから離れよう。葉子を殺したのはチョコだ」
「え? でも彼女は……」
「逃げてなかったんだ。それとも、森の中で迷って出られなくなったか。どっちにしても、まだこの辺をうろついている。葉子は運悪く、彼女と鉢合わせしてしまった。そして、殺されたんだ。今のチョコは猛獣と一緒だ。別荘まで引き返して、警察が到着するまで立て籠もっていよう」
美晴に緊張が走るのが、手を通して伝わってきた。彼女はなにがなんでも守り抜く。誰にも傷つけさせやしない。
恭太郎は自分の意志を反映させ、美晴の手を強く握った。
動悸が治まらない。負荷の高い映像を見たせいもあったが、もう一つ恭太郎の恐怖心を煽るものがあった。それは、チョコも人を殺せる人間であることだ。常に緩やかな物腰は、どことなく気品さえ感じさせ、どんな状況に追い込まれても理性を維持できる女性だと思っていた。しかし、そんなものは恭太郎が勝手に抱いた幻想だった。ガムの暴走を止める抑止力で彼女に指揮を取らせておけば、命だけは助かると淡い期待を寄せていただけだったのだ。ところが蓋を開けてみれば決してそんなことはなかった。彼女も、いざとなれば躊躇わずに人を殺せる側の人間、いや怪物だった。
ひょっとして、まさか……。香澄を殺したのも、やはりチョコなのか?
あの映像では、右手に包帯を巻いていなかったので彼女が犯人ではないと断じたが、逆に考えれば、それだけの根拠で容疑から外してしまったともいえる。なんらかの理由で包帯を外したとしても、一人で巻き直す方法なんて、いくらでもあるんじゃないのか?
とんでもない勘違いから事態を悪化させたのだとしたら、責任の一端は間違いなく自分にある。
恭太郎は、急に足元が崩れ落ちる感覚に捉われ、しゃがみ込みたくなった。
葉子の死体をそのまま置き去りにすることには抵抗があったが、馴れない足場の上、ここまで残忍な傷で死んだ葉子を担ぎ運ぶのは、二人掛かりでも無理だった。体力と精神力の双方に抵抗がある。
素人考えで現場を荒らしてはいけないとの計算も働き、場所だけはしっかり覚えて戻ることにした。
「あの岩場と別荘を真っ直ぐ結んで、直線から外れたのはこの辺りだ」
恭太郎は先端が尖った石を拾い上げ、一本の木に×印を彫った。見逃さないように、幹の太さ目一杯に刻んだ。
「これでいい。僕たちが進んできた跡が、そのまま道になるから、見つけられないなんてことにはならないはずだ」
「うん。行きましょう」
美晴が手を伸ばした。恭太郎は応えて強く握る。美晴の手は温かく柔らかかった。彼女は口元を僅かに上げた。微笑んだようだが、葉子に遠慮した弱々しい笑みだ。
美晴にちょっぴりの安心を与えられたみたいだが、恭太郎は彼女以上に安堵感を得られた。それはけっして、おぞましい映像を見なくて済むからではない。こんな事態の真っ只中にあっても、胸の奥が温かくなる優しさに触れられるからだ。
美晴は僕が守る。
もう一度自分に言い聞かせ、彼女の手を引いた。
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