第37話 森の中の惨劇

 探索を始めたばかりだが、恭太郎はすぐに後悔した。やはり別荘で葉子の帰りを待っていた方が堅実だったのではないかと思った。

 なにしろ森が広大なのだ。日が昇って明るくなったからこそ、余計にその広さを実感する。この中で人一人を見つけるなんて、至難の業どころか奇跡に縋らなくてはならない。

 それに、さっきから獣道らしき場所を進んでいるが、昨夜の千都留は必死に逃亡していたはずだ。身を隠すために木々や草が生い茂っている場所を選んでいた可能性がある。葉子はそこのところを考えて探索しているのだろうか。だとしたら、彼女自身、見つけにくいところにいることだって考えられる。

 あまりにも不利な条件下での探索に、恭太郎は思わず弱音を吐いた。


「なあ。こんな闇雲に進んでちゃ見つかりっこないよ」


 すると、美晴は意外なことを言った。


「闇雲じゃないよ。別荘から少し離れたところを基点として、左右に分かれたんだから。私はあの岩を目印に……」


 美晴は振り返りながら一点を指差した。その先には、緑がはだけて荒々しい岩肌が露出している場所があった。


「葉子はあの木を目印に……」


 今度は反対側を指差した。そっちには一際背の高い木が一本立っていた。なんの木かはわからなかった。


「それぞれ結果がどうあれ、目印まで行ったら戻ってこようって決めたの。だから、このまま進んでいけば、見つけられる確率は高いと思う」

「じゃあ、千都留の死体は……」

「あの岩に行く途中で見つけた。あんな寂しい場所に一人ぼっちで置いてくるのは可哀想だったけど、私じゃどうすることもできなかったから」

「そうか……」


 美晴の説明により、探索が決して徒労に終わらない可能性が高くなったので、動かす脚にも力が籠もった。確かに、目標を定めていたのなら、通るルートは一気に狭まる。そんな素人丸出しの探索で千都留の死体を見つけられたことの方が、よほどの奇跡だ。彼女は生前、聖者のような善行を重ねたとでもいうのか。

 舗装もなされていないので、歩きにくいことこの上なかった。予想以上に体力の減り方が早い。削られるのは体力だけではない。焦燥が神経を焦がし、精神力もどんどん萎えていく。それでも、恭太郎は普段から履き慣れたランニングシューズだったので、まだマシな方だった。


「美晴。よくこんな悪路で探索できたな」


 返事がない。振り返ると、美晴は少し離れた所で明後日の方向を見つめていた。

 葉子の探索と足元の覚束なさに気を取られていて、美晴が付いてきていないことに気がつかなかった。


「美晴?」


 たった今付けた足跡を踏み潰して、美晴が立っている場所まで戻った。恭太郎が近づいているのは気配で察しているだろうに、美晴は彼の方を見ようともしなかった。その横顔は木の影の中にあっても、蒼白になっているのがわかった。血の気が引くという表現は、こういう時に使うのだろう。

 どうした? と問うまでもなく、恭太郎は美晴の視線の先を探した。


「えっ!?」


 濃淡様々な緑の中に、不自然に浮かび上がるオフホワイトが目に留まった。見覚えがある。葉子が千都留に借りたハイネックのセーターだ。昨夜、お揃いだとはしゃいでいたのを覚えている。間違いようがない。

 森のざわつきが無音になる。確かに流れているはずの時間が停止する。まるで世界が終焉を迎えたような深閑さだ。


「葉子っ」


 止まっているのはこの世ではなく自分だと気づいた恭太郎は、弾かれたように駆け出した。平面でない地面に足を取られたが、意に介している暇もなかった。

 草むらや小枝で傷が付くのも構わず、オフホワイトに向かって直進した。葉子に近づくにつれ、恭太郎の速度は遅くなっていった。疲労のためでも勾配のためでもない。異様な光景が接近してきたからだ。とっくに視野には入っているのに、あまりに常軌を逸していたので脳が受け入れることを拒み、脚だけは動かし続けた状態だった。

 脚の動きに反比例して、鼓動は速くなった。息苦しさに拍車が掛かり、ついには脚の動きが止まってしまった。


「まさか……そんなはずはない……」


 そう自分に言い聞かせても、目の前の現実が変化するわけではない。

 葉子の頭部は、フルスイングされた棒の直撃を受けたスイカのように、木っ端微塵に砕けていた。


「うおおっ!?」


 近づきながら直視していたはずなのに、認識が結べなかった。直感的にヤバいとわかったのは、視覚ではなく嗅覚のおかげだった。見た目も凄まじかったが、鼻腔を刺す匂いで、強引に死を認めざるを得なかったのだ。


「うげぇっ!」


 死体が目の前にある。脳はこれが夢でも幻でもない現実だと受け入れた。精神もこれが覆すことの叶わない事件だと感受した。それでも信じられなかった。


「いったい、なんだこれは?」


 オフホワイトのセーターは朱に染められ、その鮮やかさが生々しく見る者の髄まで恐怖を擦り付けてくる。徹底的に破壊された頭部とは相反して、体には傷はなかった。これが葉子だというのか? 気弱そうな、常に俯き気味だった彼女の顔が浮かぶ。

 背後で乾いた音がして、我に返った。


「美晴っ、来るんじゃないっ」


 こんな惨殺死体を、彼女に見せたくなかった。恭太郎はひっつく喉を必死に開いて、声を出した。


「来ちゃ駄目だっ。こんなの、見ちゃいけない」


 美晴は脚を止めたが、それで視界が遮られるわけではない。恭太郎の細やかな願いも虚しく、美晴は慄きの悲鳴を張り上げた。


「落ち着けっ」


 恭太郎は彼女に駆け寄り、正面から両肩を掴んだ。


「なにっ。あれはなんなのっ?」

「落ち着けっ。見るんじゃないっ」

「あれは……あれは葉子なの?」


 美晴はパニックに陥るまで取り乱しはしなかった。死体が傍らにある異常な環境に適応しつつあるのかも知れない。それ自体が、充分に異常なのだが。


「ああ。あのセーターに見覚えがある。昨夜、千都留が貸していたものだ。彼女は間違いなく葉子だよ」

「こ、こんなことって……」


 二人とも言うべき言葉が見つからず、しばらくの間は森の囁きだけが耳に入り込んできた。とにかく匂いが吐き気を催すほどだったので、風上に回り込んだ。


「……獣にやられたのかな?」


 少し落ち着きを取り戻した美晴が呟いた。恭太郎に質したというより、自身を納得させるために衝いて出た感じだった。

 昨夜、葉子が熊の話をしていたのを思い出した。


「うん……。でも、それにしては……」


 恭太郎は言葉を続けることができなかった。熊に襲われたにしては、死体が綺麗すぎることに違和感を覚えたからだ。

 破壊されているのは飽くまで頭部のみで、他に外傷は見当たらない。熊でなくとも、野生の動物に襲われたのだとしたら、腕なり胴体なり食いちぎられていなければ変だと思った。しかし、動物ではないとしたら、なんだというのだ? 

 説明がつかない。いきなり突き付けられたこの事態は、なにかがおかしかった。生理的に受け入れられない残虐性の他に、理性的にも拒否したくなるような違和感があった。


「………………」


 嫌な予感がした。本当ならすぐにでも引き返して、別荘で警察の到着を待つベきだ。しかし一方で、葉子の死因を特定しないと迂闊に動けない不気味さがあった。

 迷いが頭を去来するが、いつまでもこの場に留まることこそ、絶対に避けなければならない。本能が訴え掛けている。今は一刻を争う状況だ。

 恭太郎は覚悟を決めた。


「……美晴。頼みがある」

「……なに?」

「僕はこれから葉子に対してニアを行う。おそらく、いや確実に気絶するから、すぐに起こしてほしいんだ」

「葉子の死の間際を見るったいうの? だって、この死に方は……」


 美晴は最後まで言わなかった。しかし、恭太郎には、彼女がなにを言いたいのかわかった。美晴はこう言いたいのだ。あまりにも凄まじい最期だったら、恭太郎の精神が崩壊しないかと。

 たしかに恐ろしい。しかし、それ以上に恐ろしいのは、誤った方向に進んで、取り返しのつかない事態に陥ることだった。言い換えれば、二人の命にも危機が迫っている状況なのか、把握しなければならないということだ。そして、それを見極めることができるのは、恭太郎のニアだけだ。


「………………」


 生きながらにして熊に食われるシーンが頭を過る。すぐさま、それはないはずだと気持ちを立て直し、改めて頭部が破壊された死体を見下ろした。


「……やるしかない」


 恭太郎は静かに断言し、左手を伸ばした。

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