第36話 サイクリングはお預け
通行人がいないことを確認してから、大きく伸びをして空を仰ぎ見た。抜けるようなとは言えないものの雲が少ない青空で、雨の心配はなさそうだ。
彼は交番勤務の警察官で、勤務歴は二年になる。まだまだ新人扱いで先輩からは顎でコキ使われていたが、特にストレスに悩まされることはない。学生の時は剣道部に所属していた。その頃の体育会系特有のノリでしごかれていた時の方が、よほど理不尽に感じたものだ。
帰ったら熱い風呂に入ってからひと眠りしよう。そして、明日は山中湖畔でも流してみようか。この空なら天気が崩れることもあるまい。
山本はサイクリングを趣味にしていた。剣道も続けていたが、それはもう仕事の一部となっており、公休日まで修練に使うつもりはなかった。
コンビニエンスストアでサンドイッチかおにぎりを買ってから出発しよう。いや、湖畔沿いにほうとうが美味い店があったから、熱いのを啜るってのもいいな……。
想像しただけで心が浮き立ってくる。やはり休暇を楽しんでこそ、仕事にも身が入るというものだ。こういう生活を続けられるなら、出世なんかしなくてもいい。ずっと交番勤務でも不満はない。
細やかな思いを巡らしていると、机の上の電話が鳴った。とっさに体が反応したが、書類と格闘していた巡査長が素早く受話器を取った。巡査長は受話器を耳に押し当て、軽く山本を睨んだ。表に立ってたんだから仕方ないでしょと、山本も睨み返す。
巡査長の名は
やべっ。調子に乗り過ぎたか?
昭和気質の那須は、温厚ではあるが頑ななところもある。自分の意見が正しいと思ったら、絶対に曲げない性格だ。当然、叱責する時も厳しい。嫌味のないストレートな物言いは、反論の余地を許さず、山本は意見対立で勝ったことがない。
「山本、出るぞ」
那須は受話器を置きながらも、顔つきは険しいままだった。
「え?」
上官に対する目つきの悪さを指摘されると構えていた山本は、まったく違うことを言われたので拍子抜けした。しかし、その代わりに気を張り詰めなければならないと即座に思った。那須の目にただならぬ眼光が宿っていたからだ。長年、警察官を務めなければ獲得できない、事の重大さを吟味する目だった。
「厄介事ですか?」
山本は、騒音や路上駐車の苦情ではないなと直感した。
「近くの別荘地で、人が死んでるとの通報があったそうだ。おまえ、運転しろ」
那須が示した場所は、自転車で行くとたっぷり一時間は掛かりそうな森の奥深くにあった。そもそも舗装された道など期待できない場所で、自転車では辿り着けなさそうだ。
「事故ですかね?」
山本はエンジンを掛けながら問うた。
「うん……いや、しかし」
那須は薄い衣をまとったような喋り方をした。なにやら考え込んでいる。
「なんです? 気になることでもあるんですか」
「こんな時季外れに別荘で事故なんて、なんか腑に落ちねえんだよ」
「時期が外れたからって、別荘を利用しちゃいけないって法はないでしょう」
「うむ……だが、しかし」
那須は同じような台詞を繰り返し、煮え切らない。本人は無自覚だろうが、思考に没頭するあまり、語彙が乏しくなっている。
「なんですか。珍しくはっきりしないですね。らしくないんじゃありませんか」
「例の強盗、まだ捕まってないだろう」
「ええ。たしか二人組ってことでしたね。でも、逃走には車を使ったって。こんな近くに潜むなんて考えづらいですよ」
「………………」
那須の無言に、山本は不意に不安がもたげた。
「まさか、本当にそいつらが絡んでると考えてるんですか?」
「通報してきたのは、若い女だそうだ。声が落ち着いていたわりには、内容は要領を得なかったってんだな。オペレーターは、まるで、わざと詳細をぼかして話していた印象を受けたらしい」
「伝えたくても、伝えられない事情ってやつがあったんですかね。たとえば、強盗に脅かされていたとか……」
山本は自分の推測に当てられ、急に全身に緊張が巡るのを感じた。静かにパトカーを発進させる。縁石を降りる際、ガクンと車体が揺れた。
「だとしたら、通報があったこと自体に矛盾が生じる。なんか気に入らねえな」
「応援を要請した方が良くないですか?」
「どう説明する? 交番勤務の警官の勘で動くほど、本部は暇じゃねえよ」
「もし強盗が潜伏してたらヤバいですよ。たしか奴ら、銃を携帯してるって話じゃないですか」
「だから、それを確認するために俺たちが行くんだろうが。気を引き締めていけ。けっして油断するなよ」
「はい……」
山本は上擦った声で返事をしながら、サイクリングは中止せざるを得なくなるかも知れないなと憂鬱になった。
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