第34話 血に濡れた目覚め

 眩しい光に眼球が刺激される。避けるために寝返りを打つが、光は執拗に恭太郎に捉えて離さなかった。


「うう……」


 ついに根負けして瞼を開くと、溢れる光の正体は窓から射し込む朝日だとわかった。静かだった。静か過ぎて違和感を覚えた。夜が明けたというのに、ここまで雑音が皆無なんて、恭太郎が住んでいる町ではあり得ないことだった。瞬時に意識が覚醒する。


「朝日……。夜が明けた?」


 無意識に時刻を確認した。壁に掛かっている時計の針はもうすぐ八時になろうとしていた。何事もなければ、ガムたちがとっくに出て行っている時間だ。

 室内は静まり返っていた。視線を巡らすが誰もいない。正確に言うなら、生きている人間がいなかった。


「うっ」


 恭太郎の傍らには、ガムがうつ伏せになっていた。脈を診たりしなくても、死んでいるのは明らかだった。思わず立ち上がって、ガムから離れた。


「僕が……殺した?」


 腕に伝わる反動が、生々しく甦る。気を失う前に見た映像の、獣じみた己の険しさを思い出す。自分が放った弾丸で絶命したのは、紛うことなき事実だ。途端にガタガタと全身が震え始めた。


「こ、殺してしまった。殺して……。ひ、人殺し……僕は人殺しになってしまった……」


 呟きながら室内を見渡す。そこは地獄と化していた。血だまりの中に倒れている孝之。額に開けられた穴からの出血で、顔面を身の毛がよだつほどに塗り潰されている俊哉。いずれも数時間前までは、話もしたし動いてもいた。それが、今や死屍累々の様相を呈している。

 呆然としていると、コツッと軽い音がした。微かなものだったが、静寂が支配している室内だったので、恭太郎が気づくには充分だった。

 音の主は孝之だった。仰向けに倒れている彼が、指で床を叩いて、やっと発生させた声ならぬ囁きだった。


「孝之っ」


 恭太郎は近づいて、孝之の横で屈んだ。生者がいないと思ったのは早とちりだった。孝之は辛うじてだが、生きていた。


「孝之っ、生きているなっ?」


 マッチ一本ほどの命の火だろうと、消えていない限り諦めるわけにはいかない。

 スマートフォンはどこだと視線を巡らせていると、いきなり胸ぐらを掴まれて、引っ張られた。

 態勢が崩れた。両手を床につけて踏ん張る。掌にべったりと血が着いたが、怖気を震っている暇すらなかった。


「ううっ!?」


 孝之の顔が目の前まで迫っていた。怪我人とは思えない力で、恭太郎を近づけようとしている。


「おいっ、離せ。今救急車を呼んでやるっ」


 異様な恐怖を抱きながら、恭太郎は叫んだ。しかし、孝之は力を弱めようとしない。必死に恭太郎を凝視し、口を動かしていた。

 なにかを伝えようとしている? なにか言いたいことがあるのか?

 孝之の鬼気迫った表情に、只事ではないものを感じ取った恭太郎は、彼の口元に耳を近づけた。


「み……」

「え?」

「み、は、る」


 それだけ言うと、孝之の力が抜けて、手がストンと落ちた。

 恭太郎は、慌てて彼から距離を置いた。冷酷なようだが、死ぬ瞬間に孝之に触れていると、ニアが発現してしまう。なにからなにまで異常な事態だ。また気を失えるような状況ではないことは、火を見るよりも明らかだった。


「し、死んだ……。俊哉……。俊哉っ」


 ひょっとしたら、俊哉も生きているのではないかと思い確認したが、死んでいるのは間違いなかった。触れるまでもない。頭に銃弾を受けて倒れたのだ。これで生きていたら奇跡だ。これで正真正銘、室内の生者は恭太郎だけになった。


「………………」


 洗面所まで行き、掌に付いた血を洗い流した。警察が現場検証を行う際、床の血が掌で拭われていることに言及するだろうが、ありのままを正直に話せば問題ないはずだ。


「……どういうことだ?」


 彼には、孝之が最期に残した言葉を消化できなかった。

 みはる。たしかにそう聞こえた。みはるとは見張るの意味か? いや、それはおかしい。真っ先に頭に浮かんだ推測を、即座に却下する。監視するという意味の見張るなら、見張れと言うはずだ。だとしたら、なにを指した言葉だったのだ?

 みはる、みはる……美晴?

 しかし、その結論にも疑問が投じられた。なぜ、美晴なのだ。今際の際に必死に声を絞り出したのだ。なんの意味のない断末魔だろうと、普通なら恋人である香澄や、家族の名前が出るのではないだろうか。

 そうだ。孝之に気を取られてしまったが、美晴、それと葉子はどこに行ったんだ? あまりの惨劇に堪えられなくて、二人で逃げ出した……いや、助けを呼びに行ったのか。しかし、あの二人は車の運転などできなかったのではないだろうか。

 纏まらない思考に頭を抱えていると、玄関の扉が音もなく開いた。絶妙なタイミングに、思わず身が竦む。

 入ってきたのは、誰あろう美晴だった。彼女のことを考えていたら、本人が現れた。これはなにかの暗示か?


「美晴……」


 美晴は、恭太郎が意識を取り戻していたことに驚いたようだった。一瞬だけ目を瞠っただけの、辛うじてわかる程度の驚きだった。


「孝之が死んだ……」


 恭太郎の訴えとも呟きとも取れる発言に、美晴は視線を孝之に向けた。


「彼を放って、どこに行っていたんだ?」


 思わず、責める口調になってしまうのを抑えられなかった。救うことはできなかったとしても、ガムもチョコもいなくなった状況なら、助けを呼べたはずだ。

 美晴は、恭太郎を不思議そうに見つめた。自分ではなく、孝之を放ってというところに疑問を抱いた。


「恭太郎を一人にしたのは悪かったわ。でも、気を失っていただけで、怪我はしていなかったし……」

「孝之は重症だったよ」

「孝之? 彼は撃たれて死んじゃったよ……」

「違う。彼も意識を失っていただけだ。たった今死んだんだ」

「生きていた?」


 美晴は、少なからず衝撃を受けた。彼はまだ絶命しておらず、それを放置して外に出てしまったというのか。それでは、見殺しにしてしまったも同然ではないか。俊哉と同じく至近距離から撃たれたので、即死だと思い込んでしまった。


「そんな……。わ、わ、わたし……」 


 美晴の動揺は手に取るように伝わった。そして、そんな彼女の様子を見て、恭太郎は詰問口調となってしまったことを激しく後悔した。あんな修羅場と化した現場を目の当たりにした後では、冷静な状況判断など要求する方が無理というものだ。

 美晴を追い詰めてしまった罪の意識から逃げるように、話を葉子のことに変えた。


「葉子は? 彼女は一緒じゃないのか?」

「彼女とは森の中で別れた。先に戻ってると思ってたんだけど……」

「森でって……。二人でなにをしてたんだ?」

「……千都留を探しに行ってたの。ガムの態度から、なんとなく察しはついたけど、それこそ憶測だけで、彼女が死んだのを確認したわけじゃないから」


 頭から冷水を被った気分だった。たしかにそうだ。混乱に次ぐ混乱で、そんなことに思い至らなかった。

 千都留がチョコの毒牙に掛かって殺されたというのは、飽くまでガムがそう言っていただけだ。撃たれたにせよ、暗闇の森だ。孝之のように生き延びている可能性は充分にある。それを考えると、孝之の生存を確認しないで千都留を探しに出た二人の行動は、もしかすると的確ともいえ、思慮が浅いと詰めることはできない。


「それで……彼女は?」


 美晴が一人で帰ってきたこと自体が、一つの事実を物語っている。それでも、恭太郎は一縷の望みを抱いて質した。

 美晴の答えは無情だった。黙って首を振っただけだが、望みを完全に断ち切るには、それだけで充分だった。


「酷い状態だった。散弾銃で撃たれると、あんなふうになっちゃうんだね」

「そうか……」


 ほんの少しでも期待してしまった分、落胆も大きくなってしまった。やはり、昨夜ガムに電話が架かってきた時点で、千都留は殺されてしまっていたのだ。

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