第33話 阿修羅の咆哮

 室内に悲鳴が飛び交った。誰が発したのはわからない絶叫だった。もしかしたら、自分の口から迸ったものかも知れない。


「この野郎っ」


 ガムは怒気を発散させ凄んだが、恭太郎も必死だった。とにかく銃口の前に立たないよう体を捻らせ、銃を奪おうとした。


「殺すぞっ。てめえっ」


 ガムはますます猛る。孝之を撃ち、俊哉をも殺した彼の怒号は、背筋を凍らせる真実味があった。決してチンピラが吠えている薄っぺらな怒鳴り声ではなく、はらわたに直接冷水を注がれたような、心の奥底を凍らせる響きが内包されていた。しかし、今さら怖れている場合ではない。高揚した闘争心が上手い具合に作用して、心が萎えるのを抑えた。


「やっぱり、香澄もおまえが殺したのかっ」


 恭太郎も負けじと吠えた。

 ニアを見て、ガムは犯人ではないと結論付けておきながら、冷静な判断力を失っていた。頭に血が上っているので、論理より感情が先立った。


「ふざけてんじゃねえぞっ。クソガキャァッ」


 銃撃を警戒するあまり、無理な姿勢を維持したのがまずかった。

 ガムは恭太郎の顔面を鷲摑みにすると、強引に床に叩きつけた。


「ぐわっ!?」


 後頭部が爆ぜるような衝撃に目が眩む。ガムは恭太郎の動きが止まった瞬間を逃さず、そのまま体に馬乗りになった。


「手間掛けさせやがって」


 恭太郎の手がまだ絡んでいる状態で、銃口を彼の額に押し付けた。顔の中心部の眉間にピタリと合わせる。こうなっては、もう抗いようがない。ガムの完全勝利だ。

 抑えられていた恐怖心が一気に浮上した。ガムが引鉄を引けば、命の灯火は一瞬で消える。頭が真っ白になり、思考が停止してしまった。


「最初からこうすりゃよかったんだ。くだらねえことにビビっちまって、馬鹿みたいだったぜ。人の一人や二人、殺したってどうってこたねえ」


 呪縛から逃れるため、殺人を正当化するような台詞を吐く。自分の勝利を確信し、嗜虐的な笑みで恭太郎を見下ろしている。彼ももう、精神の拮抗を保つのが限界に近づいているのだ。


「死ねよ。クソガキ」


 なんで、こんなことに?

 恭太郎の脳裏を去来するのは、走馬燈でも起死回生の策でもなく、家族や美晴の顔も思い浮かばなかった。ただ、理不尽な事の流れに巻き込まれた、己の不運を受け入れられず、なぜ? を繰り返すだけだ。

 なんで、こんなことに?

 覚悟もできないまま、ただ絶望から逃れるために目を閉じた。幼い子供が怖さから逃れるために布団を頭から被るのと同じ心理だった。


「あがっ!?」


 鈍い音と同時に、ガムから悲鳴が漏れた。

 怖れから逃避するために閉じていた目を、窺うように開く。

 ガムの頭が大きく揺れ、目から力が失われた。彼の背後に、瓶を持っている美晴が立っていた。口を開けて酸素を貪り、肩を大きく上下されている。全身が痙攣しているように震え、立っているのもやっとの状態だったが、目は血走って不穏な光でギラギラしていた。

 美晴はいつの間にかガムの背後に回り込み、瓶を思い切り彼の後頭部に叩きつけたのだ。出血こそしていないが、不意討ちの打撃は脳の髄まで響いたようだ。ガムは捕縛されているわけでもないのに、動きを止めて朦朧としていた。

 恭太郎の諦めかけていた闘志に再び火がついた。機転とか勇気とかの言葉では説明しきれない、ただ死にたくないと足掻く生存本能のみに、彼の体は反応した。

 銃を握ったままの手を、思い切り捻った。小枝を砕いたような、乾いた音と手応えが伝わる。


「ぎゃあっ!」


 引鉄に掛けた人差し指が逆方向に曲げられ、へし折られたのだ。大男だろうが、指を折られた苦痛から逃れる術はない。

 ガムがバランスを崩したため掛けられていた体重が減り、上半身が自由に動かせるようになった。しかも、ガムは激痛のあまり、銃を握る力が弱まっている。隙を衝いて、彼から銃を奪い取った。


「あっ!?」


 間髪を容れず引鉄に指を掛け、そのまま銃口をガムに向ける。姿勢は変わっていないが、形勢は完全に逆転した。

 ガムは痛みすら忘れたみたいに、体を硬直させた。散々銃口を向けたくせに、向けられる怖さは知らなかったようだ。


「おい……やめろ」

「ふーっ、ふーっ」


 自分のものとは思えない熱い呼吸が、恭太郎の肺を、内蔵を、瞳を焼いた。

 ガムの必死の懇願は、今の恭太郎には浸透しなかった。殺される寸前まで追い詰められたことで、理性のタガが外れてしまっていた。


「ああああっ!」


 銃声も霞むほどの大音量の叫びと共に、銃弾を吐き出した。

 ガムは腕を伸ばしたが、銃弾の速さに敵うはずがない。撃ち出した弾丸は二発。具体的な個所を狙ったわけではないが、至近距離だったので、二発とも外れることなくガムの大きな体を貫いた。


「おお……」


 銃声の余韻が残っている中、ガムの体が大きく揺れた。まるであり得ないものを目撃したかのように、目を見開かれていた。だが、その瞳からは光が失われ、ビー玉をはめ込んだ不気味な人形のものとなり、一部始終を見ていた恭太郎には、ひどく恐ろしく感じられた。誰にでも訪れる死の瞬間を、間近で目撃している。

 命の灯火が消え、力の糸が断ち切られたガムは、崩れ落ちて恭太郎にのしかかった。切り倒された巨木のように、ひどく緩慢な倒れ方だったのに、恭太郎は避けることができなかった。


「ぐっ」


 重いと思う間もなく、恭太郎の視界は一変し、自分自身を見ていた。


「ふーっ、ふーっ」


 食いしばった歯の隙間から、荒く息を吐き出している。室内は充分に暖かいのに、白く濁って見えるほどだ。目は釣り上がり、眉間は皺だらけだ。あまりにも鋭い眼光に、獲物を狩る瞬間の狼を連想させた。

 ……これが、僕か?

 口元が醜く歪んだかと思うと、銃声が二発轟いた。

 胸に熱さを感じたすぐ後、全身が凍えるほど寒くなった。必死に酸素を掻き込もうとするが、上手く呼吸ができない。苦しさが増すと共に力が入らなくなり、視界も暗くなった。

 先ほどの修羅の形相とは打って変わって、怯えで青ざめている自分の顔が急接近したところで、映像は暗転した。

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