第32話 統御不能の夜明け
香澄の目は閉じていた。自分でやったのか覚えていない。気を失った後に誰かが閉じてくれたのか。まさか、チョコがやったくれたのか。
大きく深呼吸をした。覚悟を決めるための儀式だ。さっきもそれで気持ちが落ち着いた。最後に迎えるのは死であるわけだから、どんなに頑張っても意識を失うのは避けられないのかも知れないが、それでもまったくの無防備で臨む気にはなれなかった。
恭太郎は香澄の右手を握った。触る部位を手にしたのに、特に深い意味はなかった。美晴が見ている前で、他の女性の顔に手を当てるのを躊躇っただけだ。
力んで体を硬直させた。ついでに目も閉じた。追体験はいきなり始まるからだ。
「………………」
しかし、いつまで待ってもニアは始まらず。目を開けても物言わぬ香澄の遺体が映るだけだった。
振り向くと、美晴とチョコが怪訝そうにこちらを見つめている。
「どうしたのよ? 遺体を調べるんじゃないの?」
「……見えない」
「え?」
「ニアは一度きりしか見えないものなのか?」
恭太郎の呟きの意味がわからないチョコは、不安を顕わにして一歩後退った。人間は理解できないものに対して恐怖を覚える。恭太郎のこの場にそぐわない発言は、死とは違った怖さがあった。
恭太郎はチョコの反応などお構いなしに、新たに発見した自分の能力の特徴に驚いていた。一度きりしか見られないと知っていたら、もっと具に観察したのに。どんなに嘆いても、もう後の祭りだ。気を失う前に見た映像を思い出すしかない。
圧迫される首。影となって判別できなかった犯人。その背後から漏れ出た僅かな光。駄目だ。どれだけ思い返しても、犯人の特定に至る材料なんか見つけられない。
「恭太郎……」
明らかに狼狽している恭太郎を危惧し、美晴は彼の肩に手を置こうとした。
「がっ!?」
突然、階下で鈍い音と共に、ガムの短い叫びがした。恭太郎も美晴たちも、思考はまったく別のところにあったので、一様に驚いた。
「舐めんじゃねえっ」
確認する間もなく、銃声が立て続けに二発響いた。怯えた悲鳴と、なにかがぶつかる音で、静けさなど遠くに去ってしまった。
「行きなさいっ。早くっ」
銃口を背中に押し付けられ、恭太郎と美晴は転がるように階段を降りた。
飛び込んできた光景は、銃声を聞いた瞬間にぼんやりと頭の中で描いていたものと、さほど違うものではなかった。
ガムが頭から血を流していた。苦痛と怒りで顔は歪み、目が血走っている。
「ふざけやがって。ふざけやがって」
ブツブツと口の中で呪詛を繰り返し、銃は構えたままだった。その銃口の先には、血に塗れた孝之が倒れていた。
「孝之っ」
恭太郎は孝之に駆け寄った。死んではいないが、呼吸が荒い。今度の銃弾は、脇腹を穿っていた。
専門的な知識のない恭太郎は、混乱に陥らないよう、必死に考えをまとめようとした。
この箇所を撃たれた場合、どうなる? 致命傷となるのか。漫画では助かったが、映画では死んだシーンを見たことがある。ああ、くそっ。こんなに血が出ている。そうだ止血だ。とにかく血を止めないと。
テーブルの上の布巾を手に取り、傷口を押さえた。白かった布巾は瞬く間に朱に染まり、出血の激しさを物語った。
「なぜ撃ったっ?」
「そのガキが、いきなり襲ってきたんだよっ」
恭太郎の怒鳴り声を、ガムも怒鳴り散らすことで跳ね返した。
「チョコ、女が一人逃げやがった」
「なんですって?」
恭太郎は室内を見渡した。美晴は自分と一緒にいた。隅で葉子が震えて蹲っている。逃げ出したのは千都留だ。
馬鹿なことをと思うのと、チョコが叫ぶのは、ほぼ同時だった。
「ガムッ、あなたはこいつらを見張ってなさいっ」
言うが早いが、チョコは外に飛び出していった。開いた扉の隙間から外の様子が確認できたが、空が白じんで完全な闇ではなくなっている。
千都留の行動は軽はずみだと思ったが、同時にこれなら逃げ切れる可能性もあると考えた。
「おい、おまえらもこっちに来るんだ」
ガムは怒りと焦燥を綯交ぜにしながら、俊哉と葉子に命じた。
「手当を、孝之の手当をさせてくれ」
恭太郎が必死に訴えると、ガムは斬れそうなほど鋭い眼差しで、彼を凝視した。
「勝手にしろ。一箇所に纏まっとけよ」
「もうメチャクチャだ。あんたらは災厄を運んできた」
「おとなしくしていれば安全は保証すると言ったはずだぞっ。それに、こんな時に人殺しなんて、なに考えてんだっ。災厄はおまえたちの方だっ」
「だから、それはっ……」
恭太郎は途中で尻窄みにならざるを得なかった。映像から推察して、千都留か葉子のどちらかが犯人ではないかと、自分自身が考えを固めつつあったからだ。しかし、確信を持てないまま、事態はどんどん移っていく。しかも悪い方に向かってだ。
なんなのだ、この状況は。自分は美晴に付き合って、薄っぺらい親睦会に参加しただけなのに。これはなにかの罰か?
外から恭太郎の懊悩さえ砕きそうな音が届いた。驚きはしたが、もう心臓が跳ねることはなかった。反響して耳に残るだった。それが銃声であることは、確認するまでもなかった。
「チョコが撃ったのか? なんで?」
俊哉が怯えるが、その情けない姿よりも、この期に及んで現実逃避していることの方に、恭太郎の胃の奥は熱くなった。
なんでもくそもない。こんな時にチョコが森の動物を撃ったとでも思っているのか。認めたくないからといって、間抜けなことを口走らないでくれ。
今度は、突如軽快なメロディが流れた。音がくぐもっていたので、室内のどこから流れているのか、とっさにはわからなかった。
反応したのはガムだった。ポケットからスマートフォンを取り出した。彼のスマートフォンが着信を知られていたのだ。
ガムは太い指でディスプレイを操作し、電話に出た。
「チョコかっ。今どこだっ」
『……だったの』
「なにっ。なんだって? 今どこにいるんだ。この家の灯りは見えるな?」
ガムの勘は、一刻も早くチョコと合流しなければならないと告げていた。しかし、チョコはガムの問いなど聞こえていないかのように、一方的に喋り続けた。
『威嚇だったのよ。まさか、こんな暗い所で当たるなんて……』
「だからっ、どこにいるんだ。すぐに行くから落ち着けっ」
『落ち着いてる。私は冷静よ。だから間違いなんかじゃない。あの娘は死んだ。頭が消し飛んだの』
「し、死んだ? 消し飛んだって?」
ガムの叫びは、恭太郎たちの耳を貫いた。彼は今、確かに死んだと言った。恭太郎と美晴は、口を堅く結んで、視線を絡めた。
『あの家は呪われている。オカルトなんて信じてないけど、なにか運や流れを狂わすものが巣食っている。私はこのまま逃げる。あなたも早くそこから離れて』
「なんのことだっ。なにを言っているっ?」
『………………』
「おい? おいっ」
恭太郎にはチョコの声は聞こえなかったが、ガムの狼狽から会話の内容は想像がついた。彼女はガムを見捨てて逃げたのだ。これまでのチョコを振り返ってみて、これほど簡単に自分に不利となる材料を残すとは思えない。つまり、ガムとは今回が初めてで、しかも一度限りの協力関係だったのだ。ガムは彼女の本名すら知らない。事が済めば、互いに赤の他人に戻る約束で犯行に及んだに違いない。
「う~……」
威嚇する猛犬よろしく喉の奥から唸り声を漏らし、ガムの目に凶気が宿った。獣の獰猛さとは違う、もっと心の奥底に潜む、背骨も凍りつかせる禍々しさだ。
「うわあっ」
恭太郎は反射的に行動した。ただでさえ体格差で不利なのに、殺意を顕にしたガムに勝つには、不意討ちしかないと判断してのことだった。
しかし、それは浅はかな判断だった。いくら不意を衝いたとはいえ、所詮は格闘技の経験などない素人だ。まずはガムの体の自由を奪うのを最優先にすべきだったのに、もっとも驚異となる拳銃を奪おうとした。
恭太郎の攻撃が突発的なものだったので、ガムも瞬時に防衛本能が働いた。狙いなど定めない状態で、引鉄を引いた。
熱く放出された弾丸は、ガムの意思が宿ったかのように俊哉を捉え、彼の額に絶望的な穴を開けた。
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