第26話 闇の中の死

 物音を不安に感じたのか、興奮で眠りが浅かったのか、休んでいた者が次々と階下に降りてきた。全員が申し合わせたように、首を伸ばして様子を見て、恭太郎や俊哉の姿を確認してから降りてきた。


「食事をするのは許可するけど、トイレに行く時は声を掛けてから行きなさい。それと、勝手に二階には戻らないこと」


 人数が多くなってきたことで、チョコが仕切り始めた。まるで修学旅行で生徒を率いる教師だが、飽くまで人質と犯人の関係だ。緊張を孕んだ空気は、どうしても薄まらなかった。


「……一人足りない」


 チョコの呟きが、緊張の度合いを一気に高めた。

 まだ降りていないのは香澄だった。恭太郎も気づいてはいたが、わざわざ起こす必要はないだろうと、知らん顔を決め込んでいた。なにしろ、彼女は怪我をしているのだから。


「香澄だよ。まだ休んでいるんだろう」


 孝之は庇うように言った。みんなが起きてきたからといっても、起床時間まで定めたわけではない。休みたければ、この二人が出ていくまで休んでいればいいのだ。そうすれば、もう怖い思いはしないで済む。


「これだけ騒がしいのに、起きないなんておかしくない?」


 チョコはしつこかった。それは怖れの裏返しだった。いつまで経っても一人だけ姿を表さないのが不安なのだ。


「……もしかして、逃げ出しんじゃないでしょうね」


 ピタッと、その場にいた全員の動きが止まった。恭太郎はすぐに気持ちを立て直し、慌てて言った。


「そんなはずない。唯一、下に降りられる階段は、ずっと見張られてたんだ」


 チョコはガムを鋭く睨んだ。


「あなた、まさか居眠りなんてしてないよね?」

「してねえよ。ちょっとぼうっとしてた時間はあるかも知れねえけど、誰かが降りてきたら、さすがに気づくさ」


 恭太郎が降りようとした時、まさに舟を漕いでいる最中だったが、そのことを口にするつもりはなかった。

 ガムの言うことを全面的に信じられないのか、今度は俊哉に詰め寄った。


「あなたはなにも見てないの? まさかとは思うけど、ガムが惚けている隙に、手引したとかも絶対にないとは言い切れない」


 俊哉は体をビクリと跳ね上げ、激しく首を振った。


「ぼ、ぼくは知らない。寝たり起きたりを繰り返してて、記憶が曖昧になってるんだ」

「使えねえやつだな」


 自分には落ち度がないことを証明してくれるはずの俊哉から、頼りない発言しか出なかったことに苛ついたガムは、思わず舌打ちをした。

 俊哉からすれば、とんだとばっちりだが、反論するだけの気概は見せなかった。


「確認する必要があるね」


 チョコが二階に戻ろうとするが、孝之が彼女の前に立ち塞がった。


「なに?」


 孝之の怒りを孕んだ気に当てられ、チョコは銃を握り直した。


「彼女は怪我をしているんだ。ゆっくり休ませてくれてもいいだろう」

「あなた、彼女の恋人? 残念だけどそうはいかない。逃げ出していないか、確認させてもらわなきゃ」

「下には降りてきてないって、ガムが言ってるだろう」

「窓から逃げたかも知れない」

「いや、それはないと思う」


 すかさず、恭太郎は口を挟んだ。


「この建物の外壁には、余計な突起物はない。逃げるには飛び降りるしかないんだから」

「二階程度なら、飛び降りても平気でしょう」

「冗談じゃない。暗くて地面なんかほとんど見えないんだ。あんな状況で飛び降りるなんて、どんなに度胸がある男だって無理だ」


 恭太郎の説にはチョコも頷けた。自分で確認し、まさに同じことを考えたのだから。しかし、難しいと思っただけで、不可能とは断言できない。追い詰められた人間は、時として信じられない行動に出ることがある。


「言ったでしょ。いざという時は、女の方が肝が座るのよ」

「そういう問題じゃない。着地するポイントがわからないのに、飛び降りられるわけがないって言ってるんだ」

「ゴチャゴチャ言ってねえで、ちょっとだけ覗いてみりゃいいじゃねえか」


 どちらも引かない二人のやりとりに、ガムが業を煮やした。


「あの嬢ちゃんが、ちゃんと寝てれば安心するんだろ。少しだけ扉を開けて確認すれば済むこった。なっ、それなら文句ねえだろ」


 ほとんど強制的な言い方で孝之に迫った。彼も大丈夫と言いながら、だんだん不安になっている様子が窺える。万が一、本当に逃げ出していたとしたら、抜き差しならない状況に追い込まれるのだから、それも当然と言えた。

 孝之としては、扉を開けるだけだろうが、なにか大事なものを汚されるように感じるため抵抗感があった。しかし、あまりにも強情を張ると、もっと荒々しい手段に訴えられる危険も考えられたので、形だけでも納得することにした。


「わかった。覗くだけなら……」


 確認するために二階に上がったのは、孝之とチョコの二人だ。ガムは残りの者を壁際に並ばせて、見張りの態勢についた。ついさっきまで、歪ながらも一緒に食事をしていたのは、やはり一時の戯れだったのだ。ここまではっきりと敵と認識できる存在は、恭太郎の人生では初めてだった。

 孝之はそっと扉を開けた。開閉くらいで音が漏れるような安普請ではないが、香澄は基本的に眠りが浅く、わずかな物音でも起きてしまうのを知っているからだ。

 そう考えた時、孝之は初めて違和感を覚えた。チョコが言った通り、階下だろうがこれだけ人の気配が動き回っているのに、目を覚まさないなんてあるだろうか。思っている以上に怪我の具合が深刻で、目は覚めているが起き上がれないのだろうか。

 訝りながらも、狭い隙間から首を突っ込み、室内を確認した。香澄は真っ暗にすると眠れない性質で、いつも常夜灯を点けたまま眠る。別荘でもそれは変わらず、オレンジ色の微かな灯りで香澄の姿を認めることができた。


「ほら、ちゃんといる。これで満足かい?」

「そのようね。でも、みんな揃ってる方が、こちらとしては助かるの」


 言うなり、チョコは電灯のスイッチを入れた。一度切ってから再び点けたことで、室内は目に痛いほど明るく照らされた。


「なにすんだっ」


 孝之は激昂するが、チョコは銃を持っている強みで余裕の表情だ。


「怒ることないでしょ。一人だけ離れているよりみんなと一緒にいた方が、あなただって安心できるでしょ。恋人同士ってのは、離れず寄り添ってるものよ」


 孝之の動きが止まった隙に彼の横をすり抜け、布団越しに香澄を揺らした。


「ほら、さっさと起きなさいな。寝てるのはあなただけよ。眠り姫さん」

「おい、乱暴にするな」


 孝之はチョコの肩を掴んで強引に振り向かせようとしたが、彼女からはふざけた笑みが消えていた。孝之の力に抗うどころか、硬直して動かなくなっている。


「……ちょっと、嘘でしょ」

「え?」


 チョコの呆然ぶりに、孝之も只ならぬ様子を感じ取った。視線をチョコから香澄に移す。途端に、チョコの狼狽が孝之にも伝染した。


「なんだよ、これ? なんなんだよ」


 香澄は確かにベッドに横になっていたが、眠っていないのは一目瞭然だった。なにしろまぶたが限界まで開かれ、濁った目で天井を見上げていたのだ。そして、その瞳にはなにも映っていないのもまた、はっきりとわかった。


「死んでる……」


 チョコの声は震えていた。それは彼女がここに現れてから初めて見せた、怯えと混乱の発露だった。

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