第24話 深夜の思惑

 チョコは一時の安らぎに胸を撫で下ろしていた。正直なところ、あの恭太郎と呼ばれていた男子の提案は渡りに舟だった。怪我による痛みはじりじりと精神力を削り取っていったし、疲労で体重が何倍にも感じられていた。こうしてベッドに横になれただけで、全身が溶けていくようだった。

 念のため窓から外の様子を窺ったが、他の別荘に人が来ている様子はない。明かりが灯っている家が一軒もないのがなによりの証拠だ。それに、部屋からの脱出も無理だと判断した。恭太郎は飛び降りることさえできないと言っていたが、なるほど、これだけの闇の中に身を投じるのは、怖れ知らずの豪胆な者ですら躊躇うほどだ。

 灯台に導かれる船のように、光を頼りにここまで来た。自動車があるのは疑っていなかったが、こんなにあっさり手に入れられたのは僥倖だった。

 体を横にして休めるのはありがたかったが、チョコは二つの不安に身を捩った。

 一つは、ガムが思った以上に凶暴さを発揮したことだ。高橋に復讐するにあたって、どうしても男手が必要だった。そこでガムに目を付けた。彼は屈強な肉体の持ち主であったし、なにより家族を失ったばかりだというのが気に入った。憎悪にも鮮度がある。人というのは、どれだけ深い怒りや憎しみだろうと、歳月を重ねると薄く掠れていく。それは薄情とか冷酷という問題ではなく、必要な心の移ろいだ。そうでないと人生の先に進めないからだ。その点、ガムの憎しみは極上の新鮮さだった。話を持ち掛ければ乗っかってくるとの確信があり、思惑通り共に高橋邸に押し入った。

 ただ、彼の凶暴性は計算外だった。さっきなど、危うく男子の一人を殺してしまうところだった。なんとか冷静さを演じたものの、背中は冷や汗で濡らしていた。警察関係者を装って、彼の勤務先や近所周辺に聞き込みをしたところ、普段から粗暴な点は垣間見られなかったと風評は一致していた。家庭が崩壊したこと、特に娘を亡くしたことで自暴自棄に走っているのか。なんにしても厄介なことだ。彼が暴走する様なら、躊躇なく切り捨てるつもりだった。

 もう一つは、人質の質だ。ガレージに車が二台停まっていたから、ある程度の人数がいるのは予想していた。だが、こちらには銃があり、簡単に鎮圧できると踏んでいた。ところが、蓋を開けてみれば、存外に気骨のある者が混ざっていた。ガムの拳銃を奪おうとした男子も要注意だが、それ以上に警鐘を鳴らしたのは恭太郎だった。

 こういう場合、敵にすると厄介なのは腕力のある者よりも機転の利く者だ。人質を各々の部屋で休ませたいと提案した時、チョコを含めたことで話を飲むと踏んだに違いない。本人は必死に絞り出した案だと装っているが、無意識にでも冷静さを保っていなければ、あんな提案を持ち掛けようとすることすらできない。圧倒的な暴力を振るうガムより、底知れない不気味さを感じるのだ。


「厄介なことになっちまった……」


 私は、なにがなんでも逃げのびる。手荒なことはしたくないが、障害になるものは実力で排除しなければならない。たとえそれが、誰かを不幸にすることになったとしてもだ。

 自分の決意を改めて確認し、チョコは固くまぶたを閉じた。



 徐々に水面が近づく感覚を味わいながら目が冷めた。

 眠ってた? 人間というのは、こんな極限状態でも眠れるのか……。

 恭太郎は自身に呆れながら、枕元を探ってスマートフォンを求めた。いつもそれで時間を確認しいるからだ。しかし、すぐに取り上げられたとこを思い出し、闇の中で苦笑した。

 なんだ僕は……。寝惚けているのか。こんな時に? 人間はどんな環境にも適応できるというが、こんなイかれた状況にすら慣れ始めているとでもいうのか?

 身を起こすと、上半身を突き刺す冷気に、一気に目が冴えた。思わずもう一度布団を頭から被る。

 さすがにこっちは寒さがきついな。もし上手く脱出できていたとしても、この寒さで動けなくなっていたかも……。

 窓の外はまだ暗く、漠然と午前の二時か三時くらいかと思った。怖いくらいの静寂が闇の深さを増強している。

 意を決して布団から出て、素早く着替えた。目が覚めてしまったので、もう眠ることはできない。疲れもかなり取れて体力も回復している。睡眠の重要さをこんな形で認識するとは思わなかった。

 少し迷って、階下に降りようと思った。俊哉と人質の交代を申し出ようと考えたのだ。さっきはチョコに邪魔されたが、彼女がまだ部屋で休んでいるのなら、要求が通るかも知れない。あの頑強な肉体は怖いが、ガムが相手なら少しは与し易い気がした。まさか、いきなり張り倒されることはないだろう。

 当たり前だが、リビングは電灯が点けっぱなしだった。室内温度も快適に調整されている。そろそろと階段を降りると、ガムがうたた寝をしている姿が飛び込んできた。拳銃はテーブルに置いてある。

 ドクンと心臓が跳ねる。

 いくら腕力に差があるからといっても、拳銃さえ奪ってしまえば……。

 しかし、恭太郎が一歩踏み出す前に、ガムはビクッと体を震わせ、テーブルの銃を手にした。


「なんだ。寝込みを襲おうってのか」


 焦りも手伝ってか、ガムは瞬時に凶暴性を顕にした。

 逆に恭太郎は、必死に落ち着いた態度を装って、静かに階段を降りた。さり気なく壁に掛かっている時計を見たが、針は四時十三分を指していた。


「目が覚めたから、降りてきただけだよ。彼と交代させてもらえないかと思って」


 俊哉は虚ろな様子で壁に寄り掛かっていたが、ようやく顔をもたげた。たった今、恭太郎が降りてきたことに気づいたようだ。

 ガムは舟を漕いでいたんだ。おまえがしっかりしていれば、起死回生のチャンスがあったのに。

 恭太郎は心の中で舌打ちをした。


「……俺の一存じゃ、それはできねえな。なにしろ、こいつを選んだのはチョコなんだからよ」

「そのチョコは、まだ休んでるようだよ。べつに構いやしないだろう」

「駄目と言ったら駄目だ」


 ガムは頑なに恭太郎の申し出を拒んだ。やはり、チョコの方がパワーバランスは上のようだ。

 なんだこいつ。弱味でも握られてるのか?

 ふと過ぎった考えを、恭太郎はおくびにも出さなかった。その代わり、アプローチのし方を変えた。


「だったら、コーヒーでも淹れるよ。目が冴えちゃったから、もう眠れないし」


 ガムは数秒恭太郎を睨んだ。彼がなにか企んでいないか考えているのだと思った。


「……なら、食いもんも用意してくれ。さすがに腹が減ったぜ」

「オーケー。僕もなにか食べたいと思ってたんだ。俊哉も食べるだろ?」

「あ、ああ……」


 俊哉は生返事をした。なにを言われたのか頭に浸透していないのではないか。長丁場の緊張で、恭太郎が思っている以上に精神がまいっているのか。不安とは別の、言葉では表現できない暗雲たる気持ちが胸中に拡がるのを、恭太郎は自覚した。

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