第23話 狐の迷い
チョコとガムは、俊哉以外の全員を、順番に部屋に閉じ込めていった。その際、内側から鍵が掛けられないか、一部屋毎に確認したが、宿泊客を対象にした建物ではない。部屋の鍵などはじめから存在していなかった。
「それじゃ、一番奥の部屋を使わせてもらうわ。ガム、監視をよろしくね」
「ああ。退屈な数時間になりそうだぜ」
ガムはあからさまに不満を滲ませ、まるで俊哉は自分のせいであるかのように首を竦めた。
「気分がよくなったら交代してあげるから、それまで頑張って」
「そんなこと言って、朝まで寝ちまうんじゃねえのか」
「そうかもね」
「けっ」
息が合っているのかいないのか判断し難い会話を横目に、この大男が話し掛けてこない限り、ずっと口を閉ざしていようと俊哉は決めた。
恭太郎も監視されている中、割り当てられた部屋に入ろうとした。その時、背中に弱々しい声で話し掛けられた。
「あの……恭太郎さん」
振り返ると、葉子が立っていた。俯き気味に恭太郎の胸元に視線を固定し、けっして目を合わせようとはしない。
「あの料理……私が作ったんです」
「料理?」
葉子から場違いな言葉が出てきたので、とっさになんのことかわからなかった。
「香澄さんが文句を言った料理……。美晴さんが私を庇って嘘ついてくれたんです」
「……そうだったんだ。でも、なんで俺に?」
「恭太郎さん、本気で怒ってたから。美晴さんのこと、すごく大切にしてるんだろうなって思ったら、どうしても今伝えたくて……」
「そんな、もう会えなくなるわけじゃないし……」
葉子も二人が恋人同士だと思っていることに、少しだけ居心地が悪くなった。しかし、美晴のことが大事であることは当たっている。ガムとチョコが乱入してこなければ、本気で帰ろうと思っていたのだ。
「おい、コソコソ喋ってんじゃねえ」
背後でガムが怒鳴る。葉子はビクリと肩を震わせて、そそくさと部屋に入ってしまった。残された恭太郎は美晴を探したが、既に入室したようだ。彼女の幼少期からの我慢強さと人を思いやる性格を知っている恭太郎からすれば、納得のいく話だ。誇らしく思うと同時に、彼女の身の安全について、改めて決意を強く固める。
どんなことがあっても、美晴だけは守る……。気持ちを熱く焦がし、恭太郎も部屋に入った。
ベッドに横たわると、見慣れない天井が視野いっぱいに広がった。
俊哉には申し訳ないが、銃で威圧されながら監視されるのと、ドア一枚隔てるのとでは、緊張の度合いが違う。張り詰めっぱなしだった気持ちの糸が、やっと緩むのを感じた。
恭太郎は、思い切り深呼吸をした。そうすれば、胸に残った不安を吐き出せるのではと期待してだ。もちろん、ただの深呼吸にそんな効果はなかったが。
電灯は点けっぱなしにしておいた。今更遅い感があるが、ガムの襲撃に備えての用心だ。チョコを休ませる目的もあって今はおとなしくしているが、いつ気が変わって暴力に訴えるかわかったものではない。
いくら休むのを許可されたからといって、こんな環境で眠れるわけないと思っていた。実際、手を当てなくても、心臓の鼓動がわかるくらい全身に伝わっている。
それでも、朝の時点では想像すらしていなかった非日常に放り込まれ頭と心が麻痺していたが、こうして一人になった今なら、少しは落ち着いて考えることができる。
「なんとかしないと……」
恭太郎がまず考えたのは、ここからの脱出だ。なんとか気取られずに外に出ることさえできれば、助けを求めることができるのではないだろうか。
身を起こして、窓を開けた。
「………………」
一望しただけで、窓からの脱出は無理だと諦めた。到着時に一通り眺めた建物の外観を可能な限り思い出した。余計な突起物がないため、足掛かりにできる箇所がない。窓から脱出するとしたら飛び降りるしかないが、下手したら骨折、運がよくても捻挫は免れない高さだ。それに、なにより暗いのだ。リビングから漏れ出る光で辛うじて地面が確認できるが、わずかに浮かぶ地面は地獄への入り口のようで、却って不安を増長させた。チョコに訴えた脱出不可能説が、皮肉にも正鵠を射ていたのだ。
「……脱出は無理だ。少なくとも、この部屋からは」
運よく無傷で降りられたとしても、助けをどうするかという問題が残る。恭太郎自身がガムに説明したように、こんな自分の足元さえ見えない真の闇の中では、進むべき方向など掴めるはずがない。万が一の奇跡が起こって救援を得たとしても、銃を手にした二人が自棄に走って凶行に及ぶのは想像に難くない。
では、反撃に転じるというのはどうだろう?
扉越しに、チョコは一番奥の部屋を使うと聞こえた。ならば、扉の前に椅子とか家具を置いて、閉じ込めることはできないだろうか。リビングからは死角になっていて、廊下の奥までは見えない。しかし、それを実行するなら、完璧に気配を消して物音一つ立ててはいけない。そんなことが可能だろうか。
この案にも、霧が晴れた爽快感はない。チョコを閉じ込めることに成功しても、ガムに勝てるイメージがまるで湧かなかった。相手は大男のうえに拳銃まで所持しているのだ。神が味方してくれたような僥倖にでも恵まれなければ、怒らせて状況を悪化させるだけだ。
せめて、みんなと連携が取れれば……。
自分から提案しておいて、バラバラになったのは迂闊だったかと後悔した。
纏まらない思考の中、どんなに抗っても必ず訪れる招かざる客、すなわち睡魔が恭太郎の元にも忍び寄ってきた。
俊哉の気持ちは萎縮しきっていた。自分の人生にこんな窮地が訪れる日が来ようとは考えたこともなかった。ガムは刺激しない限りは暴力は振るわないタイプらしいが、彼の巨躯そのものが圧迫となり、どうにも落ち着かなくなる。
抵抗する術を持たない彼は、ガムやチョコに対してではなく、まったく違うところに怒りぶつけることで、なんとか心の平衡を保った。その対象となったのは香澄だった。
俊哉は、今回の旅行には乗り気ではなかった。サークルのメンバーだけなら、なんの問題もなかったのだが、香澄の恋人や美晴の恋人まで来ると聞いていたからだ。
そんな初対面の者まで交えて、いつも通りの態度を維持できるはずがない。どうしても様子を窺ってしまう。
香澄はなんら変わることなく、傍若無人な言動に終始していた。孝之はさすがに慣れているらしく、なんとか険悪な雰囲気になるのを回避しようとしていたが、所詮は無駄な行為だった。
案の定、美晴の恋人である恭太郎の怒りを買い、争いにまで発展してしまった。大体、あれはサークル内だけで通用するルールだ。外部の人間が参加しているのに、いつも通りの環境を作ろうなんて、まともとは思えない。少し考えれば当然ああなると予想できるのに、香澄のような人物には、なにを言っても馬の耳に念仏だ。彼女の神経を疑い、呪いたくなる。
俊哉は、ごく平凡な家庭で育った。両親は聖人君子でもなければ蕩児愚人でもない、取り立てて特徴のない家庭を大切にする普通の大人だ。そんな環境で育った彼は、人というものは年齢を重ねれば、誰でも大人になると思っていた。しかし、成長するにつれ他人に揉まれるようになると、必ずしもそうとはいえないことを知った。子供特有の醜さや残酷さを維持したまま、成長してしまう者もいる。育った環境のせいなのか発達障害によるものなのかはわからない。しかし、一生掛けても大人になれない人間は間違いなく存在するのだ。香澄はまさにそうだった。人前を憚らず勝手気ままにに振る舞う彼女には、時折うすら寒い慄きさえ感じることがある。今、自分が巻き込まれているトラブルも、彼女の不徳が招いたことではないのかと、本気で思えてならなかった。
唯一の慰めは千都留が参加することだった。以前から彼女に好意を寄せており、単なる友人から、一歩進んだ関係になろうと機会を伺っていたのだ。そういう点では、今回の旅行は千載一遇の好機になるはずだった。ガムとチョコの来訪は、そんな自分の計算を無に帰すには充分過ぎた。
こんなことなら、適当な理由をでっち上げて断ればよかったと後悔する反面、そんなことは許されず、結局は来ることになったんだろうなと、俊哉の狐疑逡巡の心は諦めの境地で落ち着いた。
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