第19話 室内の嵐

 男は女の隣に座って、救急セットをテーブルに置いた。


「ほら、腕を出せよ。手当てしてやる」

「ええ……」


 女はゆっくりと手袋を外し上着を脱いだ。黒ずくめの衣服に吸われて目立たなかったが、かなり出血している。事故を起こした際に怪我をしたに違いない。指先から血が滴り、テーブルを汚した。服を脱ぐ時に痛みが再発したのか、マスク越しでも苦痛で顔が歪んでいるのがわかった。出血の量からして、決して軽傷ではない。


「ガム。こいつら、どうする?」


 治療を受けながら女は呟いた。感情の籠もらない言い方は針となり、恭太郎の心臓に深く突き刺さった。鼓動が速くなって息苦しくなる。


「おい、名前を呼ぶな」


 男は気色ばむが、女は気にした様子もなく、ふっと口元に笑みを浮かべた。


「馬鹿ね。誰が聞いても偽名だってわかるじゃない。ねえ?」


 女は俊哉に向けて同意を求めるが、彼は曖昧な態度しか取れなかった。口元に薄ら笑いを浮かべているのは、恐怖の度が超えて笑ってしまう、いわゆるfear grinningというやつだろう。


「彼はガム、私のことはチョコって呼んで」


 偽名ではあるが、自らをそう名乗った。いざとなると女の方が度胸があると聞いたことがあるが、チョコの肝の座り方は特別のように思えた。


「いつまで居座るつもりです。ここは別に隠れ里ってわけじゃありません。早々に捜査の手が伸びます」


 対抗心を燃やしたわけではないだろうが、千都留が意外と強気なところを見せた。ガムも感心した目で彼女を見ている。


「そう噛みつくなよ。明け方には出てってやる」

「ほ、本当か?」


 俊哉が歪んだ表情のまま確認した。女である千都留が発言したので、背中を押されたのか。それとも、言質を取って安心したかったのか。おそらく、両方だろう。


「俺たちだって捕まりたくはない。事故さえ起こさなきゃ、こんな場所からはとっととおさらばしてるさ」

「それまで、おとなしくしててくれるか?」


 今のは孝之だ。それに対して、ガムは威圧的に口を開いた。


「あ?」

「つまり……僕たちに乱暴はしないかって意味だ」

「そうだよな。いきなり銃を持ったならず者が乱入してきたんだ。そっちの心配をするのが普通だよな」


 ガムは破顔した。しかし、その目はまったく笑っていない。猛獣の眼光でギラついている。


「心配するな。おまえたちが余計な真似さえしなければ、暴力を振るったりはしない」

「約束してくれるか?」

「しつけえぞ。ただし、繰り返すが飽くまでおまえたちが余計な真似をしなければだ。通報したり逃げ出したり、おかしな真似しやがったら、保証はしねえぞ。よし、とりあえずはこれでいいだろ」


 応急処置が終わったようだ。男はごつい手に似合わず、包帯を巻くのが上手かった。女の手に綺麗に巻かれている。もしかして、こういうことに慣れている人物なのか。救急救命士か自衛官か。恭太郎は彼の職業がなんであるのか気になった。


「通報って言えば……」


 チョコが会話に割り込んできた。


「全員からスマホを取り上げなきゃ」

「あ?」


 ガムは再び口を開いた。しかし、さっきの威圧的な「あ?」てはなく、間の抜けた「あ?」だった。


「置き電話はないようだけど、今時、スマホを持っていないガキなんているわけないでしょ。まさか、そんなことにも気がつかなかったの」

「……それもそうだな」

「それくらい、私に言われなくても考えてよ。本当に要領が悪いね」

「うるせえな。大体、おまえが事故らなきゃ、こんな面倒なことにはならなかったんだ」

「過ぎたことをいつまでも責めるなんて、男らしくないよ」


 スマートフォンが会話に出てきた時、もぞもぞと動いていた葉子が硬直した。そして、その様子を目敏く見つけたガムは大声を張り上げた。


「おいっ。なにをしているっ!? おまえのことだっ」


 言い終わらないうちに、ガムは葉子に突進してグローブのような手で彼女の手首を掴んだ。


「ひいっ」


 無理やり吊り上げられた葉子の手からスマートフォンがこぼれ落ちた。


「こいつっ」


 ガムの力は凄まじかった。腕だけではなく、体ごと持ち上がりそうな勢いだった。葉子は悲鳴を上げて、パニック寸前になっていた。


「うわああっ!」


 ガムの隙を突いて、孝之が躍り出た。彼の腕にしがみつき、拳銃を離させようと躍起になって暴れる。


「このガキッ!? 」


 ガムは体格の差だけではなく、素早い体さばきも駆使して、孝之を振り払おうとした。不意を突いたにも関わらず、孝之の態勢は大きく崩れた。

 恭太郎があっと思った瞬間、苦し紛れに伸ばした孝之の手が、ガムのフードウォーマーを鷲掴みにして、そのまま顔から引き剥がした。ガムの顔が顕になる。元々彫りが深い顔立ちが怒りに歪んで、一層凶悪そうに映った。

 ダンッと耳を劈く爆音が轟き、悲鳴が空気を切り裂いた。その後は、打ち合わせでもしたかのように全員が動きを止めて、室内は銃声の余韻だけを残して静まり返った。

 香澄が肩を抑えて震えている。抑えた手からは血が滴り落ち、彼女の服が見る見る赤く染まっていった。弾丸が命中したのだ。

 本物だ……。モデルガンなんかじゃない。本物の拳銃だ。そして撃ちやがった。

 弾き出され、香澄を傷つけた弾丸が、床を穿ちめり込んでいる。圧倒的な力の形となって、床よりも深く深く恭太郎たちの心の奥底まで潜り込んでいった。


「香澄っ」

「……このクソガキャ〜」


 孝之は香澄に駆け寄るが、ガムが唸り声と共に彼の頬を張り飛ばした。


「あっ!?」


 まるで孝之には体重などないみたいに弾き飛ばされ、床に打ちのめされた。


「なめた真似しやがってっ」


 ガムは激昂を飛ばしながら、床に転がった孝之の腹に蹴りを入れた。


「げえっ!」


 一発では気が治まらず、同じ箇所を執拗に狙う。孝之は体を丸め腕でガードしているが、体重を乗せた蹴りは、腕の骨ごと砕きそうなほど重たそうだ。


「やめてっ! やめてよっ!」


 千都留がヒステリックに叫ぶ。情けないことに、恭太郎は声も出なかったし、体も動かなかった。嵐が過ぎ去るのを待つ老木のように、ただその場で固まっていた。

 五発の蹴りを放ってから、やっとガムは攻撃をやめた。千都留の願いを聞き入れたわけではなく、単に体力が限界だったのだろう。息切れが激しく、肩が大きく上下に動いていた。


「孝之さんっ、孝之さんっ」


 千都留が孝之の背中に手を当てて彼の名を呼んだ。恋人の香澄は震えたまま動けないでいる。受けた銃創の痛みに耐えるので精一杯なのだ。


「ひどいっ。暴力は振るわないって言ったくせにっ」

「人の話を聞いてなかったのかっ! おまえらが余計なことをしなきゃって言っただろうっ」


 千都留の非難にまたもや頭に血が昇ったガムは、今度は彼女を蹴り倒そうとした。


「やめろっ」


 この時、やっと恭太郎の体が動いた。考えてのことではなく、体が勝手に反応した行為だった。孝之に被さっている千鶴の更に上に被さり、自分の背中を盾にした。


「彼女……香澄さんが怪我をした。手当てを……早く手当てをさせてくれ」


 恭太郎はガムへの憎悪など後回しと言わんばかりに、香澄の手当てを要求した。孝之も痛みを堪えて彼女に近づき、屈んで彼女の様子を確認した


「香澄……ケガしたところを診せて」

「かすっただけみたいだけど、痛いわ」

「丁度ここに救急セットがある。よかったじゃねえか」


 憎らしい嫌味を口にするが、香澄の弱々しい言葉に一番胸を撫で下ろしたのは、誰あろうガムだった。そんな彼の様子を敏感に察した孝之は、燃えるような目でガムを睨んだ。


「なんだぁ? ずいぶん生意気な目で睨んでくれるじゃねえか」

「そんな威嚇してるけど、あんた今、ほっとしただろう」

「なんだと?」

「強盗のうえに人殺しまで重ねたんじゃ、罪は比較にならないほど重くなる。よかったな。弾がかすっただけで。運がよかったのは香澄だけじゃない。あんたたちだってそうだ」


 痛めつけられたのがよほど腹に据えかねたのか、孝之は挑発的な罵倒を口走った。怒りのあまり、興奮して自分でも制御できていない。


「このガキャァ。もう一度痛い思いをしてぇらしいな」

「いい加減にしなよ」


 チョコの静かだが鋭さのある声に、ガムの動きがピタリと止まった。

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