第17話 熱い口論と訪れた不吉

 ほとんどの者が今日が初対面なので、食事中は互いに様子を窺う会話になった。ただ香澄と俊哉は例外で、勝手にべらべらと喋りまくった。主な内容は、旅行先での経験談やキャンパスライフが如何に充実しているかで、要するに自慢話だ。聞き流しておけば腹も立たないと、恭太郎はなるべく美晴や孝之を相手にしていた。

 なんとなくぎこちない雰囲気が徐々に均され、料理の味を楽しむ余裕が出始めた時、唐突に香澄がヒステリックな声を出した。


「これ、味付け濃過ぎるわね。不味い」


 形だけでも団欒だったはずの場が、一瞬で凍り付いたように静まり返った。

 香澄が指したのは、スパニッシュオムレツだった。たしかに、塩の入れ過ぎで少ししょっぱかった。恭太郎も味が濃過ぎだなと思って口に運んでいたが、食べられないことはない。許容範囲だ。それに、こんな所まで来てわざわざ料理してくれた人の気遣いを思えば、わざわざ口に出すほどのことではない。


「そんな言い方はないでしょう」


 恭太郎は、考えるより先に言葉を発していた。なにもしてない上に、濁した言い方ではなく、不味いとバッサリ言い放った態度にも頭に血が上った。


「なによ?」

「一生懸命作ってくれた人に対して、失礼すぎるでしょうって言ってるんだよ」

「不味いものを不味いと言って、なにが悪いの」

「言い方ってものがあるって話だ。大体、あんたはなに一つ手伝ってないじゃないか。何様のつもりだ」

「これだけ立派な宿に招待してあげてるのに、これ以上なにかしろっての? さっきからあなたこそ何様のつもり? 美晴の彼だっていうから参加させてあげてるのに」


 先程も恭太郎に怒鳴られたことを根に持っていたのか、今度は香澄も言い返してきた。他人に対する思いやりがまるでない思考を正面からぶつけられ、恭太郎の怒りはますます濃厚に圧縮される。

 言葉の応酬は続いたが、それは虚しく苛つきが募るだけの時間だった。ものの考え方が根底から違うのだから、互いの言い分が受け入れられるはずもなく、いつまで経っても平行線だ。頭が熱を帯びていくにしたがって、次第に声が大きくなっていき、言葉遣いも乱暴になっていった。


「恭太郎、もういいから」


 堪らず割って入ったのは美晴だった。


「これ、私が作ったの。ちょっと濃いかなって思ったんだけど、そのまま出しちゃったんだ。ごめんね香澄。すぐ作り直すから」


 熱くなっていたところに、作った本人から謝られたものだから、香澄は急に冷めたようだ。白けたといった方が、的を射ているかも知れない。


「そこまでしなくてもいいけど、失敗だって思ったんなら捨てちゃってよ」

「だって勿体ないから……」

「まあ、あなたならそう思うかもね」


 恭太郎は視界が赤く濁る思いだった。こんな礼儀の欠片も身に付いていない女が、本当に美晴の友人なのか。美晴は父親の影響があって、辛いことや不快なことにも我慢する性格だ。しかし、これほどの侮辱は看過できない。彼女が流すことができても、恭太郎が許すことができなかった。


「美晴。やっぱり帰ろう。こんな人としての基本すらできていない馬鹿に付き合う必要はない」


 香澄は目を吊り上げて恭太郎を睨んだが、とっさに言い返してこなかった。面と向かって馬鹿と罵られたのは生まれて初めての経験なのだろう。怒りのあまり思考がこんがらがっているに違いないが、それはこっちも同じことだ。

 さっきは諌められたとこもあり、旅行先で喧嘩をするのも大人げないと自制したが、今度はなにを言われようが意志を変えるつもりはなかった。熱くなり過ぎて、恭太郎も後に引けなくなった。普段はおとなしくても、言うべきことはきちんと言わなければ相手は増長する。とくに年齢だけ重ねて幼稚性が抜けないような痴れ者なら尚のことだ。

 今後の香澄と美晴の交流に亀裂が入るだろうし、香澄の恋人である孝之も同席しているが、もう知ったことではなかった。さっきまで美晴には縁を切るように勧めようと考えていたし、孝之がなにか言ってきたら、恋人の無礼極まりない態度をなぜ戒めないのか逆に問い詰めてやるつもりだった。


「帰りたいならご勝手に。でも、車は出さないわよ。孝之も結構飲んでるから、事故を起こされたら堪らないもの」

「いらないよ。タクシーを呼ぶ」


 まさに売り言葉に買い言葉で、恭太郎はますます後に引けなくなった。


「ちょっと、ちょっと待ってよ」


 恭太郎が腰を浮かせた。いよいよ本気だと悟った孝之は、なんとか宥めようとした。香澄に対する強烈な文句については、黙認するつもりらしい。彼の立場としては迷惑千万だろうが、恭太郎に譲歩する気はなかった。


「そうだよ。こんな素敵な場所で喧嘩なんかアホらしい。酒が足らないんだよ。もっと飲もう」


 俊哉も孝之をアシストするが、その軽薄な性格を反映するかのように、宥め方も間が抜けており、余計に恭太郎を煽るだけだった。


「とにかく落ち着いて。香澄さんも、言葉が過ぎるわ」


 千都留も加勢して、なんとか場を治めようとしたが、もう完全にタイミングを逸していた。熱された鉄は、冷水にでも浸さなければすぐには冷めない。そして、三人の宥めの言葉は冷水には程遠いぬるま湯だ。

 とにかく、なんと言われても恭太郎に引く気はなかった。美晴に協力するつもりで参加したが、正直なところ、出会った瞬間から自分とは毛並みが違う人種だと感じていた。恵まれた環境の温室育ち故に、人の心のなんたるかが欠落している欠陥品。そのくせ、秀でた才能や世渡りの術は持っており、社会的地位を掴み取る連中。ほとんどやっかみに近い域ではあったが、反りが合わないことには違いない。


「行こう」


 恭太郎が美晴の手を掴んだ時、玄関の方からからガチャッと音が聞こえた。


「ちょっと待って。誰か来たんじゃない?」


 千都留の一言に、全員が打ち合わせしたように動きを止めた。耳を澄ますが、もうなにも聞こえない。しかし、何者かの来訪を思わせる音は、たしかに恭太郎にも聞こえた。


「ご近所さんかな?」


 俊哉の推測は、香澄によって即座に否定された。


「この時期に訪れる人なんて、いないと思うわ。それに仮にそうだとしても、なんで他人の家のドアを勝手に開けようとするのよ」

「……きっと僕たちと同じで、時期外れの森を楽しもうって人達だよ。灯りが見えたから、挨拶に来たんじゃないかな」

「だから、勝手にドアを開けようとするわけないじゃ……」


 香澄が言い終わらないうちに、今度はインターホンが鳴らされた。軽快な音が室内に響く。恭太郎にはなにかこの場にそぐわない音に聞こえた。カメラ付きではないので、誰が訪ねてきたのかは不明のままだ。

 孝之はさっさとリビングから出ていこうとした。彼からしてみれば、来訪者の正体が誰であれ、助け舟を見つけた気分だったのかもしれない。


「ひょっとして、お土産なんか持ってきてくれてたりして」


 孝之は冗談を言いながらリビングから出ていった。


「もしかすると、動物じゃないか?」


 孝之が姿を消してから、俊哉が暢気に言った。


「馬鹿言わないで。インターホンを鳴らせる動物なんているわけないじゃない」


 千都留が即座に否定したが、俊哉は尚も言葉を続けた。


「知らないのか? 以前に家から締め出された犬が、インターホンを鳴らしたって海外のニュースでやってたぞ。ジャンプして、鼻で器用にボタンを押すんだ。犬にできるんだから、狐とかにもできるかも」

「それは、飼い犬が人間の仕草を真似てやったことでしょう。こんな所に飼い犬なんているはずないじゃない」

「だったら、猿とか……」

「熊……」


 これまで黙っていた葉子が、いきなり物騒なことを言ったので、一同はギョッとなった。しかし、次の瞬間に聞こえた孝之の驚いた声が更に大きな驚愕となって上書きされた。


「なっ、なんですかっ。あなたたちはっ。うわっ!?」


 なんだと思う間もなく、背中の毛が逆立つような激しい音がした。孝之が殴られるか蹴られるかして、床に転がされる場面が頭に浮かんだ。

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