第15話 氷一枚分の安全
厨房で動いている三人は、高校生のように浮かれていた。どんな料理を作ろうか相談しているようだ。もちろん、食材を購入した美晴が主に案を出しているようだが。
「せっかくだから、普段作らないもの作ってみようよ」
凝ったものを作るわけじゃないと言った美晴の言葉などなかったかのように、千都留が提案した。その声を耳聡く聞いてた俊哉が茶々を入れる。
「作ってもらってなんだけど、ちゃんと食べられるものにしてよ」
「よけーな心配しなくていいの」
普段からこんな会話を交わしているのだろう。二人のやり取りに険はなかった。俊哉の方が一方的に熱を上げている印象を持ったが、千都留は決して彼を邪険にしているわけでもなさそうだ。
カップルの集まりになると聞いていたから、多少は見せつけられるのを覚悟してきたが、実際に目の当たりにすると尻の辺りがムズムズしてしまう。美晴とのつきあいもずいぶん長いが、ひょっとしたら自分たちも甘い関係になったりするのだろうかと、恭太郎は彼女の後ろ姿を目で追ってしまった。
「これ……この近くですよ」
スマートフォンでレシピ動画を検索していた葉子が、不安げに呟いた。
「なに?」
「これ……」
美晴が彼女のスマートフォンを覗き込む。
ディスプレイにはリアルタイムの動画を配信するサイトが開かれており、喧噪とした町中の様子が映し出されていた。次々と書き込まれるコメントから、事件が発生しているのだと察しが付いた。真面目なものから不謹慎な発言まで、様々なコメントが寄せられているのでわかりづらかったが、民家で強盗事件が発生したらしい。民家といっても、豪邸と呼んでも差支えのない家屋が映し出されている。
「やだ。物騒ね」
「どうかした?」
香澄の声には苛つきが含まれていた。料理以外のことに時間を割くなと、遠回しに急かしている。どこまでも身勝手な女だ。少し落ち着いたのに、またもや恭太郎にチリっとした不快さが走った。
「この近くの町で強盗ですって」
「今時、銀行強盗なんて成功するのかな?」
千都留が答えると、孝之が暢気な感想を漏らす。
「銀行じゃなくて普通の民家って出てます。近所の人が動画をアップしているみたいですね。コメントが凄いことになってる」
「俺さ〜……」
俊哉が気怠そうに口を開いた。
「そういうのに書き込みする奴って嫌いなんだよ」
なにかを主張するような口振りだったが、誰も理由を訊かなかった。仕方なく恭太郎が場を繋げた。間が開くというほどでもない、絶妙な合いの手だった。
「どうして? 僕も書き込みなんかしたことないけどさ」
「だってそうだろ? こいつら、自分がどこの誰かもわからないから、無責任な言葉を書き込み、ほとんどが誹謗中傷をして喜んでる連中だぜ? 買い物してたらジジイに怒鳴られたとか、ママ友でやたらマウント取ってくる女がいるとか、身内で愚痴ってりゃいい話じゃん。そんなものをSNSで晒す方もどうかと思うけど、それ以上に、無責任な文句で書き込みする奴らもなんだかなぁって思うわけ。いったいなにが目的なんだろうね」
「暇潰しじゃないの?」
千都留がシンク越しに自説を披露した。
「誰だって暇を持て余す時ってあるじゃない? そんな時に、お喋りの相手が欲しくて参加するんじゃないかな」
「違うね。ただのお喋りで、ここまで誹謗中傷が飛び交うか? 書き込みを読んでみろよ。ほぼ全員が上から目線で、アップした者だけじゃなく、他の意見に対しても幼稚な返しで見下してる。こいつらは毎日のようにくだらない情報を待ち構えていて、アップされたと同時に高飛車な発言をしてるんだよ」
「人を見下すのに、努力はいらないから……」
消え入りそうな声なのに、葉子の意見は恭太郎の腑にストンと落ちた。
「全員がそうじゃないと思うけど、マウントを取ろうとしてる人は、社会に上手く溶け込めてないとか、常にストレスを溜め込んでて消化できない人だと思う。優し過ぎたり引っ込み思案な人たちで、現実では言えないことをネットで吐き出してるんです」
「あんたにしては語るわね。もしかして、あんたも書き込んでるクチ? まあ、そうであっても不思議じゃないけど」
香澄が陰湿に茶化す。葉子は言い返さなかった。俯いていた顔をますます下に向け、少し赤らめている。当たらずも遠からずと思われても、仕方のない仕草だった。
それでも、葉子は喋るのをやめなかった。
「SNSは、自分を前に出せない人の唯一の居場所なんだよ。インターネットが完成した瞬間から、生まれるべくして生まれた場所なの」
「馬鹿らし〜」
葉子の話を一蹴したのは、話題を持ち出した俊哉だった。
「それこそ、仲間内でやれって話だよ。陰キャだろうがオタクだろうが、生きてれば友達の一人や二人はできるもんだろう? 会ったこともない者同士が互いに見下し合って、なにが楽しいのかな」
「マウントを取り合う書き込みだけじゃないです。個々の意見が一点を向いて纏まって、世間を動かすことだってあるよ」
「そして、自分のおかげで世の中がよくなったって満足してるんだろ? それが馬鹿らしいっての。それはただの自己満足。マスターベーションだよ」
「どういう意味です?」
葉子がムッとした。
恭太郎の印象としては、彼女は言い争いを避けるタイプで、争いに発展するくらいならさっさと折れると思っていたから、少々意外だった。ひょっとして、先の香澄の揶揄は的を射ていたのかも知れない。
俊哉はムキになった葉子が面白いのか、一層口調が滑らかになった。
「ミツバチっているだろ? あいつらは天敵であるスズメバチを協力して殺すんだ。熱殺蜂球といって、数十匹でスズメバチを包囲して蒸し殺すのさ」
「ムシだけに?」
孝之のボケは、それこそ無視された。討論が加熱しないようにと彼なりの配慮だったのかも知れないが、完全に機を逸して浮いてしまった。香澄は蔑むように彼を睨んでいる。
「……知能のないミツバチになぜそんなことができるかというと、あいつらは自分一人ではスズメバチには絶対に敵わなく、協力しなければ勝てないと知っているからさ。これは大事なことだよ」
「それと、書き込む人が自己満足してるって、なんの関係があるの?」
「そういう連中は、集団の力を個人の力と勘違いしているアホの集まりってことだよ。見てみろよ。炎上後に改善された後の書き込みを。『また勝った』『俺の思惑通りになった』『ザコ過ぎて笑える』等々。なんなんだよ、これ。まるで自分が世界を変えたみたいにはしゃいでいるじゃないか。たった一言書き込みしただけでさ」
「俊哉、もう……」
孝之が止めようとするが、俊哉は興に乗って、かなり熱くなっていた。
「ある意味、虫よりも劣る連中だよ。イキがりたいんなら外に出ればいい。体と根性を鍛えて、堂々と世間と向き合えばいいのさ。コソコソ隠れてネットでしか発言できないなら、いっそのことネットからも離れて引き篭もってろってんだ」
彼は熱い息を吐くが如く喋り続けた。俊哉自身、胸につかえて解決できない悩みを抱えているのではないかと思った。
しかし、かなり極端な意見だが、恭太郎には少なからず賛同できる部分もあった。彼にしてもインターネットを使った交流は皆無ではなかったが、共通して感じたことは、どこに顔を出しても、だんだん会話がささくれていくことだった。初めは遠慮して礼儀正しくとも、馴れ合いが始まれば時を移さずして言いたい放題のマウントの取り合いになる。
呆れたのは、推理小説について語り合う掲示板を覗いて、ある質問をした時だ。
『あの結末が理解できなかったんですけど、どなたか解説お願いします』
『あんな簡単なのもわからないの? 初心者ならアガサ・クリスティ辺りから入れば?』
気分が悪くなったし、黒い感情が澱のように胸の奥に沈んだ。推理小説なんて所詮娯楽だ。本を読んで楽しむのに初心者も上級者もあるか。こいつはいったいなにを勘違いしているのだ? 言い返そうとしたが、またムカつく返しが来るのは予想できたので、そのまま放置してしまった。
それ以来、恭太郎は掲示板を覗くことはしなくなったし、SNSで発信したこともコメントしたこともない。俊哉同様、心のどこかでネットで息巻いている連中を見下していることは否定できなかった。
葉子はなおも反論しようと口を開いたが、戒めるように美晴が話の方向を変えた。
「犯人は逃走したみたいだね」
美晴の機転を敏感に察知した千都留が、会話を引き継ぐ。
「警察には通報されてるんでしょ? そのうち捕まるわよ」
「でも怖いな。ほんとにすぐ近くじゃないか」
「近いって言っても、ここからだと車で三十分以上も掛かるじゃないか。僕たちには関係ないさ」
「そんなことより早く料理を進めてくれない? 何時間も掛けられちゃたまんないわ」
各々が思いを口にするが、押しなべて緊張感はない。それも当然で、現場が近いからといってもネットを介して得た情報など、ほとんど別世界の出来事という認識しか浸透しない。普段はインターネットで配信動画など見ない恭太郎などは、事件の内容よりも一般人がニュース報道さながらの映像を世界に向けて発信できることの方に感心した。
だが、今から数時間後、その認識はなんの保証もない薄っぺらい氷上のものでしかなかったことを、思い知らされることになるのだった。
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