第14話 燻る乾杯

 以降は大学での講義の話題や私生活のことなど、次々と話題を移して時間が流れた。当然のように香澄が話し手の中心となり、恭太郎たちは聞き役という立ち回りだ。本来なら楽しいはずの憩いのひと時まで微妙な空気に支配され、恭太郎は落ち着かなかった。他の者はなにも感じていないのだろうかと、秘かに一同の様子を伺ってしまう。


「あ、そろそろ夕食の準備しなくちゃ。美晴作ってくれる?」


 香澄が美晴を名指ししたので、さすがに恭太郎は気色ばんだ。これまでの彼女の上から目線の喋り方に鬱憤が溜まっていたこともあり、つい声が尖った。


「ちょっと待って。なんで美晴なんですか」

「だって、そのために美晴に参加してもらったんだから」


 香澄は悪びれもせずにしれっとしている。これではまるで召し使いも同然の扱いではないか。恭太郎は、まるで異世界の住人が目の前に座っているような錯覚に陥った。


「おい、香澄……」


 場の空気が、というよりも恭太郎が纏う空気が熱膨張するのを感じ取った孝之が、香澄を諌めた。それでも、彼女の横暴さは修まらない。


「招待してあげたんだから、それくらいは当然でしょ」


 恭太郎の頭に血が昇り、怒号が喉までせり上がってくる。必死の思いで怒鳴るのだけは抑えたが、この後の時間は到底楽しめそうになかった。


「帰ろう。嫌な思いを我慢してまで、付き合うことはない」

「え? なに? 嫌なことってなんのこと?」


 香澄は真顔で訊ねた。なんの邪気も感じられない。まるで子供が野良猫を撫でようとしたら逃げられた時のように、きょとんとしている。

 恭太郎は、疑惑が確信に変わる瞬間を実感した。香澄の無遠慮な態度に、最初は世間の荒波に揉まれずに人生を送ってきた者特有の幼稚性を垣間見ていたが、徐々にそうではないのではないかと思い始めていたのだ。

 彼女のそれは、生まれつき備わった天性のものだ。新聞やニュースで散々報道されているにも関わらず、コンビニエンスストアやスーパーの店員に不条理なクレームを付けて怒鳴り散らす老害。法で定められ罰則まで設けられたのに、未だに煽り運転をして通報される馬鹿者。まるで、自分だけはなにをしても許される免罪符を持っていると思い込んでいるような、厚顔無恥な行動を一向にやめられない人種。香澄は間違いなくその類だ。


「いいよ。ご飯の用意くらい。そんな凝ったもの作るわけじゃないし」


 美晴が強引に二人の間に割り込んだ。彼女自身は、それほど不快さを顕わにしていない。そういえば、買い出しの時は美晴が主に材料を決めていた。こうなることを想定していたからなのか。


「じゃあ、僕も手伝うよ」


 孝之が申し出た。恋人の失点を補おうと気を使っているのは明らかだ。彼の自然な入り方に、こんなことは日常茶飯事であることが窺えた。


「いいわね。だいたい、料理は女がするものなんて考えは、古臭い年寄りの発想だわ」


 美晴に料理をさせようとした自分の行為を棚に上げて、香澄は平然と言い放った。


「ううん。私が手伝う。葉子ちゃんも手伝ってもらっていい?」

「あ、はい」


 険悪なムードの中、身を縮めていた葉子を誘って千都留が立ち上がった。あっという間に女性三人による調理隊が編成された。


「僕も……」


 なおも言い募る孝之を、千都留は両手で押し留める仕草でかわした。


「ダメダメ。女の子同士で楽しくやりたいんだから。殿方は座って待っててくださいね」

「なんだい。俺たち男連中の評論会でも開こうって魂胆かい?」

「それもあるかも」


 俊哉のツッコミを悪戯な笑顔で適当に流して、千都留は美晴と葉子の背中を押して厨房に消えた。

 残された男三人と香澄は、途端に手持ち無沙汰になる。千都留の気遣いにより一触即発の事態は免れた。恭太郎も冷静さを取り戻したが、だからといって何事もなかったようには振舞えない。いくつもの仮面を使い分けて魑魅魍魎の中を生きる政治家ではないのだ。


「女性陣が腕を振るう夕食も楽しみだけど、酒もふんだんに買い込んできたんだ。少しなら入れてもいいんじゃない?」


 孝之が空気を入れ替えるように提案し、厨房に消えると缶ビールやカクテル、それにグラスを載せたトレイを持って戻ってきた。


「せっかくの旅行なんだ。楽しまなきゃ」


 崩した笑顔の裏側に、香澄の汚名返上の意思が見え隠れしている。彼は香澄とは正反対に、周囲に気を使う性格のようだ。生来のものなのか、香澄と交際するようになってから身に付いたものなのか、恭太郎は少しだけ彼を不憫に思った。


「そうだな。けど、少しだけな。酔っぱらって料理の味がわからなくなったんじゃ、またご婦人の機嫌を損ねちまう」


 俊哉は自分で言って可笑しかったのか、一人でクスクス笑った。

 各々のグラスにビールが満たされると、香澄が乾杯の音頭を取った。今日は彼女がホステスなのだから当然の流れなのだが、先程の些細なトラブルのこともあり、恭太郎はグラスを合わせる音に不協和音が混じっているように聞こえた。それとも、音源は自分の内側にあるのだろうか。不愉快さがこびりついて離れない。胸の奥で燻る熾火が消えないのを自覚する。一刻も早く鎮火させるのに、ひどく神経を削った。

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