第11話 悪魔の微笑み

 彼女とは、これまで数回顔を合わせただけだった。今回のためだけに行動を共にしているのだから、呼び方などなんでもよかったのだが、長年連れ添った夫婦じゃあるまいし「おい」「ねえ」と呼び合うのも抵抗があった。そこで女の方から提案が上がった。


「私のことはチョコと呼んで。あなたは……ガムでいいわね」


 最初はふざけているのかと思ったが、彼女は本気だった。互いにコードネームで呼び合い、本名は探らないこと。それがチョコから出された条件だった。チョコの方はガムの素性を知っているのに不公平だと思ったが、おそらく、高橋を頭とする組織に与する者の一人なのだろうと当たりをつけた。それも、冷遇される立場にいる女だ。そうでなければ、こんな裏切り行為を画策するはずがない。千代子をもじってチョコなのだろうかと勘繰ったが、それでは安易に過ぎる。チョコとはチョコレートを指しているのか、それとも猪口からきているのか。ガムは追求する気にもならなかった。

 ガムがチョコの私生活を調べることはできなかった。彼女の素性は決して探らない。それがコンビを組む条件だったのだ。気にはなったが、ガムにとってチョコの正体などどうでもよかった。自分の人生を破滅させた遠因となった高橋に一矢報いることができるのなら、悪魔とでも手を組んでもいいとさえ思っていた。そして、彼女がいなければ計画そのものが持ち上がらなかったのは紛う方なき事実で、コンビではあるがチョコの方は立場は優位といえた。

 ガムは素早く車に乗り込んでドアを乱暴に閉めた。間髪を容れずにチョコがアクセルを踏む。強盗の舞台となった高橋邸が瞬く間に遠ざかっていく。

 ガムは強盗など初めてだったし、即席のコンビという不安もあったが、終わってみれば呆気ないものだった。しかし、これからが本番とも言える。無事に逃げ仰せなければ、敗北なのだ。


「……それにしてもよ」


 ガムはフードウォーマーを脱いでポケットにねじ込んだ。


「下調べは、もっと徹底してやっとけよ。高橋が帰ってきた時には肝が冷えたぜ」

「予想外のことは起きるものよ。仕事でも、泥棒でも、人生でも」


 チョコは悪びれもせずに嘯いた。計画では、高橋幸一が外出している間に、貯め込んでいる金のインゴットを頂くはずだった。それなのに、予定よりも遥かに早く帰宅したものだから、居直り強盗よろしく、ガムが高橋を襲い、電気コードで縛り上げたのだ。

 用心してフードウォーマーを取らずにいてよかったと、今更ながらに胸を撫で下ろした。着用していたフードウォーマーはネックカバーも付いており、目的は防寒ではなく顔を隠すためだったからだ。高橋を恨んでいる者は星の数ほどいるし、指紋一つ残していないから、顔さえわからなければ、誰が犯人か特定するのは困難なはずだった。

 ガムが犯罪に手を染めることになったのは、運命の歯車が狂ったからとしか言いようがなかった。半年前まで、自分が犯罪者になるなんて夢にも思わなかった。不運に見舞われたら、崖を転がるように奈落まで落ちるというのは、比喩でも脅しでもなく本当だったのだ。

 落とし穴は、なんでもない日常の路傍にぽっかりと開いていた。

 ガムはドライバーとして収入を得ていた。野菜や果実を青果市場に運ぶ長距離ドライバーだ。仕事の内容に不満はなかった。人付き合いが下手で、愛想や日和って頭を下げられる性格でもなく、勤務時間のほとんどを一人で過ごせる長距離ドライバーという仕事は、寧ろ性に合っていた。

 ただ、家を空けなくてはならないのは、仕事の特性上、如何ともし難かった。一度仕事に出れば、数日間は帰れないなどはざらで、その間、家庭内の育児や雑事は、妻の初穂はつほに任せきりだった。

 仕事は楽ではなかったが、家族のために身を粉にして働いている自負があった。それなりに充実していたし矜持も持っていた。なにより、人に気遣う煩わしさがないのがよかった。そんな彼に非を求めるとすれば、他人を遠巻きにしてきた人生のせいで、相手の機微を見抜くのに鈍くなっていたことだ。

 初穂は浮気をしていた。育児と家事に追われる生活に嫌気が差し、鬱憤を溜め込んだ日々の隙につけ込まれた。最初は軽い気持ちだったのだろう。自分には人生を楽しむ権利があるはずだと、己の行動を正当化したかも知れない。

 ガムにとっては浮気だけでも許しがたい裏切りだったが、すり寄ってきた相手が堅気ではなかったのが状況の悪化に輪を掛けた。

 男は梶原博己かじわらひろきというチンピラで、麻薬の売人をしていた。麻薬を疲労回復薬とか適当なことを言って、初穂に勧めたのだ。もちろん、親切心からではない。

 初穂も怪しい感じは察したが、くたびれた生活から脱出し、刺激を求めていた。彼女は躊躇いながらも、蜜を求める蜂のように手を伸ばした。軽はずみとしか言いようがない。

 梶原は、初めから初穂を金ヅルにしようと目論んでおり、初穂はあっさり籠絡された。あとは空に向けて投げたボールが必ず落ちてくるように、落下の一途を辿った。

 いずれ一軒家を購入しようと、頑張って貯めた銀行預金が瞬く間に減った。家計のやりくりも初穂に任せきりだったガムは、残高を確認するなど一度もしたことがなかった。家事がおざなりになり、ガムが帰宅する度に、部屋の中は雑然としていった。それとなく注意したが、疲れているの一言で跳ね返された。あの時に、初穂の言動の変化に気づけなかったことは、いくら悔やんでも悔やみきれない。

 そして、初穂はとうとう育児まで放棄した。露呈したのは、ガムが一週間も留守にしなければならない仕事から、やっと開放された日の夕方だった。

 早く無邪気な笑顔が見たかった。久し振りに一緒に風呂に入るのもいい。どんなに疲れていても、娘の存在は食べ物以上に人生の糧となった。

 喜び勇んで帰宅したが、娘は少しも動かず泣き声一つ上げられないくらい衰弱していた。混乱に陥りながらも、救急車を呼んだ。しかし、もはや手遅れだった。その日の深夜に、娘は無機質な病室であまりにも短い一生を終えた。

 絶望に目を眩ませながらも、マグマのように燃え盛る衝動がガムを突き動かした。初穂に怒号を浴びせながら真相を迫って、経緯のすべてを知った。

 ガムは初穂を張り倒して、その足で自宅近くの喫茶店に赴いた。初穂の話では、今日が麻薬の受け渡しの指定日で、場所はガムも何度か足を運んだ店だった。よりにもよってガムの帰宅日に麻薬を受領しようなどとはふざけた話だが、調味料を切らしていたのでコンビニで買ってくるなど、適当な口実を設けて出るつもりだったのだろう。喫茶店は徒歩でも五分と掛からないし、麻薬と金を交換するだけなら、数秒もあれば事足りる。

 怒りの炎を発しながら店内に乗り込むと、目的の男はすぐに見つかった。当然、見たこともない男だったが、醸し出す独特のニオイは隠しきれていない。明らかに堅気ではなかった。店内にはそれなりに客がいたが、彼の周囲の席はすべて空いていた。

 梶原もガムに気づいて、なにかを察知したようだが、ガムの行動は素早かった。立ち上がろうとする男の顔面に拳を叩きつけ、倒れたところを滅茶苦茶に蹴りつけた。梶原が悲鳴を上げようが血を吐こうがお構いなく、執拗に蹴り続けた。

 ガムが梶原を蹴り殺さずに済んだのは、店主がすぐに警察を呼んだからだ。あの時のことははっきりと覚えていない。頭が真っ白になり、視界は真っ赤に染まり、喉が裂けんばかりに叫んだ気がするが、正気に戻った時には複数の警察官に取り押さえられていた。

 暴行罪、器物破損罪、その他で、その場で即逮捕された。現行犯なのだから、言い逃れはできない。ただ、不幸中の幸いとでも言えばいいのか、相手も警察とは関わりたくない輩だ。背後に組織の影が見え隠れはしたものの、梶原は末端のさらに端にいる雑魚だったために切り捨てられたようで、それ以上の大ごとには発展しなかった。

 弁護士を介しての示談が成立し起訴はされなかったので、七十二時間の拘留で釈放された。再び自由の身になった時には、なにもかもが奪い去られ、空っぽになったみたいな気分だった。

 初穂も薬物使用や保護責任者遺棄等致死傷罪で、他の警察署に拘留されていた。ガムと違って、彼女の方は正真正銘の犯罪者で、懲役は免れなかった。弁護士から初穂の言伝を聞かされた。彼女はやり直したいと言っているらしいが、冗談ではない。家庭を崩壊させておいて、どの口が言っているのか。もう、ガムの心に初穂の居場所などなかった。

 娘の葬式を終え、日常が戻った。これまで経験したことのない空虚な日常だった。勤めていた運送会社には戻れない。なにより、働く意欲が湧いてこない。これまで鬱がひどくて働けない者を嘲ていたが、彼らはこういう状態なのかと自嘲気味に思った。

 ただ食べて寝るだけの生活を何日か経て、一人の女が接触してきた。それがチョコだった。彼女の素性はなにもわからなかったが、チョコの方はガムを襲った悲劇を把握していた。


「梶原なんて雑兵を殴ったところで、復讐なんて言えないんじゃないの?」

「………………」


 詳細は語らなかったが、チョコは麻薬の密売を行っている組織の、中心人物に近しい位置にいるとのことだった。


「高橋幸一って男でね、もうジジイよ。どんなに老いぼれようと組織のトップだからね、稼いだ金のほとんどがジジイの所に集まってるの。そいつを頂戴しようってのよ」

「金なんかいくらあったって、娘は生き返らねえ」 

「でも、あなたは生きている。生きている以上は、お金は必要でしょ」


 ガムは反論しなかった。チョコが言っていることは間違っていないし、実際、来月からの生活費をどう工面すればよいのかわからない状態だった。それになにより、娘が生き返ることはないにしろ、悲劇の根本である高橋とやらに復讐を果たしたかった。自分と同じように破滅させなければ、胸に燻る炎を鎮静させることなどできそうになかった。そんな話を聞いたまま放置していたのでは、気が狂いそうだった。


「……話を聞かせろ」


 こんな怪しげな女の話に乗ったのは、梶原を半殺しにしただけでは腸を焦がす怨嗟の炎が鎮静しなかったこと、今後生きていくための金が必要なこと、それとは相反して、もうどうにでもなれという捨て鉢な諦念があったからだ。


「話を聞く以上、裏切ることはできないからね」

「うるせえな。早く話せ」


 チョコは妖艶に微笑んだ。それは地獄に堕ちた者をさらに最下層まで突き落とす、悪魔の微笑みだった。

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