第10話 溶ける関係

 しばらくは渋滞らしい渋滞には一度も捉まらなかったが、八王子を抜けたところで少し詰まった。故障を起こして立往生した自動車がいたらしく、現場まで自動車が連なっていた。しかし、孝之の運転はとてもスマートで滑らかだった。危険など一向に感じることはなく、安全を心掛けさえすれば、自動車は決して危険な乗り物ではないと思わせた。

 恭太郎は、無職のうちに運転免許証を取得しておこうかと考え始めた。自動車の購入は無理でも、レンタカーやカーシェアリングを利用すれば、ドライブを楽しめる。自分が運転する車の助手席に美晴を乗せて、温泉やキャンプを満喫する。想像が翼を広げ、思わず口元がニヤけてしまった。

 渋滞にはまっていた時間は結構長かった。孝之に確認したら、予定より大幅に遅れてやっと行程の三分の二まで来たとのことだ。


「だから、もっと早く出ようって言ったのに……」


 孝之がぼやくと、香澄がすぐさま反応した。


「仕方ないでしょ。まさかあんな渋滞に巻き込まれるなんて思わなかったんだから」


 二人の会話から察するに、集合時間を決めたのは香澄のようだ。ずっと運転し続けている孝之からすれば疲労も溜まって愚痴の一つでも言いたくなるのは当然なのに、香澄の言い方が攻撃的だったので、恭太郎は思わずフォローに回った。


「僕が運転できればよかったんだけど……」

「気にしないで。どっちみち、この人は他人に自分の車を運転させないんだから」 

「そういうこと。恭太郎くんは気にしないで、景色でも楽しんでてよ」


 孝之の言葉に応えるように、都留インターチェンジを抜けた所で、富士山が飛び込んできた。


「うわあ」


 美晴が感嘆の声を上げる。悠然と大地に鎮座している富士山は、ただ山の一言では片付けられない圧倒的な存在感を示している。信仰の対象にまでなるのも頷ける雄姿だ。


「そろそろ高速から降りるよ。香澄、ナビゲート頼むね」


 富士山を横目で眺めていた孝之が言った。彼の車にも、当然ナビゲーションシステムは装備されていたが、地方では詳細まではサポートしてくれないことがある。機械による不安な誘導より、現地を知っている香澄の案内の方が頼りになるというわけだ。


「えー。今までただ座ってただけだから、できるかわからないわよ」

「……見覚えのある場所に出たら、言ってくれればいいから」


 孝之は落胆を微かに滲ませた。頼っていた案内が当てにならないことより、協力する姿勢に乏しい方に対してだろう。

 恭太郎は二人の会話を聞きながら、孝之も別荘には初めて訪れることを知り、同時に香澄とは少し距離を保った方がよさそうだと考えていた。彼女の言動は些細なことがいちいち鼻についた。本人は気づいていないだろうが、傲慢さも染み出ている。途中で休憩を入れたとはいえ、三時間近くも運転を続けている孝之に対して、労いの言葉一つ掛けないのは、さすがに思いやりに欠ける。甘やかされて育った家庭環境が透けて見える性格が、どうにも好きになれそうになかった。


「何事も起きなければいいけど……」

「ん? 恭太郎なんか言った?」


 恭太郎の独り言に耳聡く気づいた美晴が、体を乗り出してきた。


「いや、そろそろ尻が痛くなってきたなって……」


 とっさにごまかしながら、恭太郎は一抹の不安を拭えないでいた。



 目の前に転がっている男を見ていると、殺意が湧いてくる。縛りあげられ、哀れなくらいガタガタと震えている。

 こんな奴に、俺は、俺の家族は苦しめられたのか……。


「ガム、さっさと行きましょう。長居は無用よ」


 男は、自分をガムと呼んだ女を一瞥すると、再び視線を床に伏している男に移した。縛ったのはガム本人だ。

 みすぼらしく華奢な男は、高橋幸一たかはしこういちという名だった。

 老人と言い切ってもなんら差し支えない高齢者で、素手でも殺せそうなくらいか細い。ゲームかアニメに出てくる巨躯のラスボスなら闘志も燃え上がるだろうが、怯えきっている老体はそれ自体が毒で、胸の深層で眠っていた残虐な殺戮衝動しか呼び起こさない。

 もう一度、ガムは怒りを噛み締めた。

 こんな、小動物みたいな老人に嬲られた俺の人生とはなんなのだ?

 不条理に人生を蹂躙された者にしか理解できない忸怩たる思いが、血管を逆流して脳を破壊しようとする。怨嗟は熾火となっていつまでも胸に燻り続ける。この先、一生この苦痛を抱いて生きていかなくてはならないのか。


「ガム、モタモタしないでっ」


 急かされることに怒りを漏らしながらも、彼女の方が正しいと自分に言い聞かせ、その場を離れようとする。


「うう……」


 不意に高橋が呻いた。苦しそうな声を発せさせたのは、他ならぬ自分なのだ。くすぐられるような快感がせり上がってくるが、自分が受けた苦しみはこの比ではない。こちらは体どころか魂まで、人生そのものの自由を奪われたのだ。


「今のあんたの姿を見て、溜飲が下がる奴はごまんといるぞ」


 打ち合わせでは、不要な発言は控えるよう言われていた。言葉は多くの手掛かりを残す。動機や犯人の正体なんかだ。しかし、ガムは呪詛の一つでも浴びせなければ治まらなかった。


「知ってるか? あんたの名前に入っている幸いって字な、あれは手枷を象った文字なんだ。それがどうして幸せかというと、罪人が死を免れて手枷程度で済んだからだ。死刑にまでならずに済んで幸せって意味だ。でもな、あんたにはこのままくたばってほしいよ」


 ガムは高橋のみぞおちに爪先を食い込ませた。


「げえっ!?」


 高橋は体をくの字に曲げて苦しがった。口から涎が垂れ流して、自分の顔を汚している。

 これくらいなら死にはしないだろう。本当に殺してやりたいくらい憎んでいたが、こんなクズのために殺人者になるのも願い下げだった。

 ガムは分厚い天板のリビングテーブルに置いていたバッグを手に取った。ずしりと頼もしい重みが腕に伝わる。表に出ると、女は既に車に乗り込みハンドルを握っていた。


「乗って」

「そう急かすなよ。チョコ」


 ガムは女をそう呼んだ。冗談みたいな呼び名であるが、ガムは女の本名を知らなかった。

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