第8話 いざない
予告通り、美晴は夜の九時に訪ねてきた。夜も更けるというほどの時刻ではないが、女子が男の部屋に上がり込む絵柄だ。恭太郎は緊張したが、美晴の方は幼馴染みの気軽さがあるのか妙な雰囲気にならない。というより、彼女の屈託なさがそうさせなかった。
「へえ。かたづいてるね」
「来るって言ってたから、掃除したんだよ」
再会して以来、美晴は何度か部屋を訪ねており、その度に室内をチェックされている気になる。建物の外見が貧相であることはどうしようもないが、せめて室内の清潔さだけはアピールしておきたかった。
恭太郎とて年頃の健全な男子だ。女性が目にしたら嫌悪感を抱きそうな画像や映像くらいは持っている。しかし、先日まで出力センターで働いていた者としては複雑な思いだが、今の時代紙媒体に頼る必要がないので大いに助かる。美晴に限らず、友人が来る際には必ずパソコンを落とすし、念のためアダルト関係が保存されているフォルダは奥深くの階層に潜り込ませてある。さらに、マスターベーションで精液を染み込ませたティッシュが捨てられたゴミ袋は、バルコニーに出しておくという徹底ぶりだ。こんな男の健気な苦労など、美晴は知る由もあるまい。
「食べながら話そ」
美晴はコンビニのレジ袋をテーブルに置いた。彼女が来る時は、大抵なにかしら食べ物を買ってくる。今日はオリジナルブランドのポテトチップスとプリンだった。
恭太郎は電気ポットで保温していた湯で、インスタントコーヒーを淹れた。もうお決まりになった一連の流れだ。
美晴はスナックの袋を背中まで開けて、シートのように広げた。残す気などない開け方だ。
「それで、朝話したことなんだけどね……」
美晴が、ポテトチップスを口に放り込みながら説明を始めた。
大学で知り合った友人から、一泊の旅行に誘われている。むこうは美晴以外の友人を何人か誘うから、美晴にも誰か誘えと言ってきたそうだ。
「なんでそんな流れになるんだよ。美晴の友達なら、美晴だけ行けばいいじゃん」
美晴の表情に陰りが浮かんだ。不愉快なことを言ってしまったのかとヒヤッとしたが、すぐに元のあどけない顔に戻った。
「友達って言っても同じサークルに所属しているだけで、私なんか幽霊部員だから顔見知りに毛が生えた程度だし……」
恭太郎は、彼女が大学生活の話をした時に、オールラウンドサークルに所属していると聞いたのを思い出した。活動内容は曖昧で、大学生活をより楽しくすることを目的としたサークルとのことだ。話を聞いた時には怪しげな印象を受けたが、在籍しているだけでそれほど深入りしていないと言っていたので、さほど気に留めていなかった。実際、今回の話を聞くまで忘れていたくらいだ。
「それなのに、旅行に誘われたの?」
「人数合わせでしょ」
「そうなんだ。でもいいじゃん。大学時代の友人なんて、ノリで付き合うようなもんだし。行って来れば?」
「だから、一人じゃ行きづらいんだってば。だって、
香澄というのが、件の友人らしい。確かに、二組のカップルの中で一人だけどいう環境はきつい。なんだか変なことになってるなと、内心訝しむ。
「だったら断れよ。そんな恋人のお披露目会みたいな旅行に、無理して付き合うことないだろ」
恭太郎としては至極真っ当な意見を言ったつもりだったが、美晴は納得しなかった。
「だって、もう私も参加する雰囲気になっちゃってるんだもん」
「だからって……」
「恭太郎には、私の彼ってことで付いてきてもらいたいの」
「え?」
軽いジャブを打ち込まれたように、心臓が大きく波打った。
「そういうことなら私の面子も立つし、抑止力にもなるから」
「抑止力って……あちらさんは、もう恋人がいるんだろ」
「でも、男の人って……いきなり変な気になるじゃない」
それは歪んだ情報による偏見だと、声を大にして訴えたかった。男の性に対する欲求はデフォルトで、変な気になるのは欲望を抑えられなくなった状態を指すのだ。
だが、それとは別の部分で頭が回転を始める。これを切っ掛けにして、美晴との仲が一気に発展するかも知れないと計算が働いた。
恭太郎は未だに童貞である。恥ずかしいとか惨めとかなどとは思っていないが、やはり、なんというか、女体を貪り抱きたい欲望はある。美晴に対して露骨に邪な感情はないとは思っているが、では、迫られたら拒むのかと問われれば答えは否だ。彼女の柔らかそうな体を思い切り抱きしめたいし、滾る欲望をぶつけたいと思っている。
「………………」
改めて、彼女のことを考える。美晴といると楽しいし、落ち着ける。他の女性にはない安心感がある。結婚するなら、こんな相手が理想なのではないだろうか。駄目だ。清い心と欲望に塗れた心が混ざり合って、少々混乱している。服越しに主張している女性特有の凹凸を横目に、急に鼓動が速くなった。過度な期待を抱きながらも、飽くまで慎重で落ち着きのある態度をなんとか維持した。
「……う〜ん。用事が入ってて行けないとか断ればいいと思うんだけどなぁ」
「タイミングを逸しちゃったのよ。実際、私もなんの予定も入れてなかったし」
「因みに、総勢で何人になるんだ?」
「私が話を振られた時点では、五~六人くらいみたいなこと言ってたけど……」
「それは美晴も含めて?」
「そう」
恭太郎は悩んだ。彼はそれほど社交的とは言い難い。見ず知らずの人間と旅行に出掛けるなど、ありえない発想だ。しかも、相手は当然大学生なのだろう。高校を卒業してすぐに働いていた恭太郎にとっては、腰が引ける。しかし、同世代の男が何人もいるところに美晴一人を行かせるのも、気持ちを落ち着かなくさせる。
いきなり突き付けられた難題を前に、恭太郎の心は大いに揺れた。頭の中に天秤のイメージまで浮かび上がる。二つの皿になにが乗っかっていたのかは彼自身にも明確な映像は結べなかったが、片方に大きく傾くのは自覚できた。
「……わかった。僕も参加するよ」
美晴の顔がパッと明るくなる。
「ほんと?」
「ああ。香澄さんには、旅行なんて久し振りなんで喜んでたと言っておいてくれ」
「ありがと。約束だからね。今さらやだって言っても無効だよ」
美晴は嬉しそうにプリンに手を伸ばした。
話の内容からして、強引に誘われて迷惑そうだったが、案外心惹かれていたのではないだろうか。講義とアルバイトに埋没した日常に、連休にもなんの予定もない侘しい学生には、確かに一泊といえども旅行は魅力的だろう。
こうして、恭太郎は急遽駆り出されることになった。
決心したなら話は早かった。美晴が香澄に恭太郎のことを話した日に、さっさと計画を組み立ててしまった。恭太郎は今回は美晴の付き添いだからと、口を挟むことはしなかった。
目的地は山梨県の山中にある別荘で、
現地までは香澄の恋人の
あれよあれよと話が進んでいる間に、連休は目前に迫っていた。
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