第7話 二人の距離
冷たい風が鳥肌を逆立てた。思わず両手で上腕を擦った。
「さむっ?」
恭太郎は、長袖シャツを着てこなかったことを、今更ながらに後悔した。
家を出る時は、この肌寒いくらいの空気を心地好く感じた。しかし、歩いているうちに、どんどん体の内側から熱が奪われていった。
だからといって、もう引き返すのも億劫なほど家から離れてしまっている。駅はもう視界に入っている。どうしようかと葛藤していると、背中から弾けるような声がした。
「うわっ、信じられない。半袖っ?」
振り向くと、美晴が立っていた。驚きながらも口元に笑みを湛えている。
「おはよ」
「おはよう。肌寒いくらいが気持ちいいんだよ」
恭太郎は意味のない痩我慢をして、挨拶を交わした。
一ヶ月前の再会を機に、二人は以前のように会うようになっていた。恭太郎は、現在、安アパートで一人暮らしだが、偶然にも美晴は近所で生活していた。もっとも、近所だったからこそ、美晴は恭太郎が勤務していた出力センターに仕事を頼みに来たのだが。
美晴は恭太郎と違って、大学に進学していた。あの日も、課題をまとめた小冊子を出力するために訪れたのだ。小ロットが可能なオンデマンド印刷だからこそ、一般客にも窓口を開いていた。それが再会に繋がったのだから、運命とはどう転ぶかわからないものだ。
大学生になった美晴は美しくなっていた。子供の頃から整った顔立ちをしていたが、成長したことでよりハッキリした綺麗さが強調されているうえに、大人の色気を纏ってとても魅力的だった。そんな彼女の前にすると、高校生の時のように上手く喋れなくなることがある。一度離れたことではっきりした。美晴を一人の女性として意識していることは、自分でもわかっていた。しかし、飽くまで友人としての距離で固定されてしまったまま別れたので、今となっては余程の好機が訪れない限りは想いを口にするのも至難の業だ。再会して間もないのに、以前から好意を寄せていたと告白するのも、なんとなく躊躇われる。我ながら情けないと思うが、今は微妙な距離を保つのが精一杯だ。
会う時は恭太郎から誘う時もあったし、逆の時もあった。二人きりで出掛けるものの、雰囲気は恋人のそれではなく、親しい友人の域を出ない。家庭の事情についてはなるべく触れないようにしたが、それでも、あれから千葉県に引っ越ししたことや、通学のために一人暮らしを始めたことなどは教えてくれた。
今日は美晴の方からの誘いだった。なにか話があるとのことで、ある種の期待を胸に出てきたのだが、彼女の様子からして色づいた話ではなさそうだ。苦笑いを隠しながら、話とはなんなのだろうかと想像する。
並んで歩いていると、美晴は「お茶でも飲んでく?」と言うのとなんら変わらない調子で訊いてきた。
「恭太郎は、十一月の連休は予定ある?」
今では呼び方も、くんやちゃんを取って呼び合っている。美晴の言う連休とは、土曜日、日曜日に勤労感謝の日を加えた三連休のことだ。
「いや〜……。買い物したりゲームしたりして終わっちゃうかな。僕にとっては普通の日と変わらないし」
「そっか。あの後、あそこでの仕事は辞めちゃったんだよね」
出力センターでの仕事は、先日辞めたばかりだ。いずれは新しい仕事を探さなくてはならないが、金遣いは荒い方ではない。今度は生涯の仕事に巡り合えるように、焦らずじっくり探すつもりである。
「じゃあ遠出する予定はないってことだよね。お泊りなんかもオーケー?」
美晴の、なにかを含んだ言い方が引っ掛かった。
「なに? なんかあるの?」
「うん。もしかしたら、付き合ってもらうことになるかも」
付き合う? しかもお泊り?
恭太郎の頭には、裸でベッドに横たわる美晴の姿が浮かび上がった。
慌てて頭の中の映像を掻き消したが、異性として意識している美晴からそんな誘いを受ければ、そういった類の妄想をするなという方が無理だろう。
「なにさ。外泊するってことは旅行にでも誘おうっての?」
邪な想像をしたことなどおくびにも出さないで、わざと口調を緩めて訊いた。
「ん。実はね……」
話を始めようとした美晴を邪魔するかのように、彼女のスマートフォンから着信音が鳴った。軽快なリズムで聞き覚えがあった。曲名はわからないが、海外のアーティストの曲であることくらいは知っていた。
「ごめんね」
美晴は断ってから電話に出た。
「えっ? でも、これから……」
電話の向こうの相手と会話する美晴の声には、明らかに狼狽する様子があった。恭太郎は嫌な予感がした。
電話を切った美晴は、わかりやすいほど申し訳なさそうに眉を下げて手を合わせた。
「ごめん。誘っておいてあれなんだけど、急用が入っちゃって」
「ああ……でも、話があるって」
「今夜、部屋にお邪魔するから。詳しいことはその時にね」
消化不良のまま、美晴は話を打ち切った。これ以上のことは今は言うつもりはないらしい。恭太郎は気になって仕方なかったが、追求するのもがっついているようで躊躇われる。
落胆する恭太郎を背に、美晴は足早に駅の中に消えていった。
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