第6話 三年ぶりの邂逅

 モニタの右下に表示されている時刻を見るともなしに見る。三時三十二分と示されているのを確認し、溜息が出てしまう。

 今は午後ではなく午前、つまりは深夜ということだ。交代の日勤が出社するのは六時だが、引き継ぎやなんやで、退社できるのは七時過ぎだ。これから出社するサラリーマンを尻目に、背徳感を味わいながら帰路に着くことになる。    

 上原恭太郎は高校を卒業した後、出力センターで契約社員として勤務していた。都内にいくつも支部がある、印刷サービス業者では名の通った会社だ。

 元々、趣向を凝らしたポスターや装丁を眺めるのが好きだったし、デザインに関われると思った。勉強させてもらうつもりで募集に応募したら、あっさり採用された。募集要項には、レタッチソフトや編集ソフトを使ったDTPオペレーターおよび出力物の加工とあったが、実際の仕事は出力した印刷物の加工の方が多く、パソコンソフトを使っての作業は出力する際の面付けくらいだった。

 騙された気分だったが、自宅から近く自転車で通える利便さを無碍に蹴るのも躊躇われ、ズルズルと続けている。

 背後で呼ばれたので振り返ってみると、二週間前に入社したばかりの新人が困惑していた。この出力センターは従業員の出入りが激しく、しょっちゅう従業員の募集を求人サイトに掲載している。


「どうした?」


 恭太郎は契約社員ではあるが、もう二年近く勤務している。入れ替えの激しいこの現場では、去年入社した正社員よりも頼りにされるまでに至っていた。


「なんか、ここが変なんですけど……」


 北原という新人は、遠慮がちにモニタの一点を指差した。

 恭太郎は舌打ちしたくなった。文字が化けている。この出力センターはデザイン会社や輪転機がメインの印刷会社からの仕事も受けるが、店内に受付カウンターを設けてある。つまり、一般客も受け入れているのだ。加えて、他の店舗からも仕事が流れてくるので、数ある店舗の中でももっとも多忙だ。

 仕事を受ける際にはデータをチェックし、打ち込まれた文章がアウトライン化されているか、容量が大き過ぎないかなどを確認するはずだが、あまりにも忙しいとその作業を端折る者も出てくる。そして、これは秋葉原駅前にある店舗から回された仕事だった。当然、対応をした者の責任が問われるところだが、受付カウンターや会社のサイトで、データの仕様について要確認を勧告している。だから、全責任をその者に負わせるのも酷な話ではあるが、急を要しているであろう客からしてみれば知ったことではないというところか。


「この時間じゃ連絡も取れないだろうし、日勤の連中に任せよう」

「でも、これの締切は午前十時ですよ?」

「としても、こんな文字化けしたもん出力したんじゃ、クレームになるよ。秋葉原店の方には電話入れて事情話して、向こうで客に説明してもらおう」

「そうですね。チェック漏れしたのは、あちらなんだから」


 北原は開き直ってデータを閉じた。山ほどの仕事を抱えているのだ。こういう割り切りも大事だった。客とひと悶着あるかも知れないが、そこまでは面倒見られない。

 一度噴出した不満は、連鎖反応的に他の不満も呼び起こす。大体、この会社は経費をケチり過ぎているのだと、文字化けとは関係のない点で鬱憤が吹き出してきた。客から渡されたデータ量が大きくて開くことさえできないなど珍しいことではなかったし、開いたとしても出力されるまで何十分掛かるんだと焦れるなど、ほぼ毎日だ。

 だからこその容量制限なのだが、やはり、一般客には無関心の注意喚起だ。規模がでかいせいか、仕事道具であるパソコンのグレードアップを本社に要望しても、跳ね返されてしまう。出力で使用しているパソコンが、一般家庭で使っているものよりグレードが低いなどと知られたら、客足はぱったりと途絶えてしまうのではないだろうかと心配になる。

 ようやく交代の時間となり、夜勤組はちらほらと引き上げ始めた。恭太郎も私服に着替えて足早に去ろうとしたが、ロッカー室を出たところで富田に捕まった。

 富田は、このセンターの長を務めている。いわば恭太郎の上司である。常に笑みを湛えている温厚な人柄だが、眼鏡の奥の目は鋭い分析者のそれで、叱責されたことなどないにも関わらず、恭太郎はこの上司が苦手だった。

 富田に連れられ、会議室に入室した。二十人は収まる広い空間に二人きり、しかも向かい合って座らされたなので、俄かに緊張した。


「どうかな? あの件は考えてくれたか?」


 やはり、その話か。恭太郎は内心で溜息を吐いた。

 先日、正社員になるための試験を受けないかと打診された。夜勤の間、現場を実質上指揮している恭太郎には、その資格があるというのだ。

 しかし、恭太郎は逡巡した。ここは飽くまで出力する会社であって、デザイン会社ではない。印刷物を加工して製品を完成させるのにも体力的にきつかった。加えて、正社員になれば断れないケースも色々と出てくる。入社して数ヶ月後に夜勤に移ったが、正直なところを言えば日勤に戻してほしかった。夜勤組には時給がいいとか通勤ラッシュに合わなくて済むとかの理由で自ら進んで勤めている者もいるが、恭太郎は昼夜逆転の生活がどうしても馴染めなかった。

 特に嫌なのは休日だった。ここは完全週休二日なので、毎週きちんと休日は取っているのだが、生活のリズムを狂わせたくないので、ずっと午前中には床に就き夜になってから目覚める生活を送っている。しかし、午後十時を過ぎてから起きたところで、どこに出掛けろというのか。いつも、ゲームをしたり、小説を読んだり、動画配信サイトを覗いているだけで終わってしまう。虚しさが全身を駆け巡り、体感的には数時間しか休んでいないようだ。

 また、正社員になったら転勤になる可能性もある。出力センターは全国展開している。都内ほどではないにせよ、各県に店舗は設けられており、北海道や沖縄でだって営業している。恭太郎は東京から出るつもりはなかった。地方を見下しているわけではない。これまで当たり前のように生活していた場所を捨てるなど想像がつかないのだ。


「それなんですが、今月いっぱいで退職させてもらおうかと思いまして……」


 恭太郎の返事に、富田は表情を固くした。


「なぜ? 正社員になれるチャンスなんだよ」

「……ここでの仕事は、僕が望んでいるものとは少し違うんです」 

「不満があるなら、申告してくれれば……」

「そういうんじゃなくて、例えば、野球選手を目指している人に、サッカー選手になれって迫っても無理でしょう?」

「………………」

「ここでの仕事はやりがいはありますけど、なにか自分が目指しているものとは方向が違うなって思って」

「上原さんには夢があるってわけか」

「夢なんて明確なものじゃないんですけどね」


 恥ずかしげもなく夢などと言う富山に、恭太郎は苦笑した。そして、なんだかんだで良い上司なんだよなぁと思う。


「失敗したな」

「え?」

「私が正社員の話をしなければ、まだここで働いてくれたんじゃないのかい?」

「いえ……どうかな。そろそろってのは前から考えてたんで」

「いいさ。夢を追い掛けるのは若者の特権だ。きみの後釜が育ってくれればいいのだが」

「僕なんかより、ずっと向いてる人が何人もいますよ」


 実際、夜勤だというのにテンションの高い後輩がいる。恭太郎が休みの時には代わりに仕切ってもらっているので、自分が抜けたところで然したる影響はないと思う。

 解放されて、そそくさと帰路に着いた。駐輪してあった自転車に跨り、店舗の正面を通った時、吸い込まれるように一人の女性に視線が向いた。


「美晴ちゃん?」


 店舗に入ろうとしていた女性は、驚いて振り返った。


「……恭太郎…くん」


 成長して色気が身に付いているが、間違えようもない。相葉美晴だった。彼女もすぐに恭太郎だとわかったようだ。こちらを凝視して、困惑の笑みを浮かべている。実に三年ぶりの再会だった。

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