第5話 黙ってお別れ

 美晴とは中学までずっと同じ学校に通っていた。高校は女子校だったので一時は疎遠になったものの、家まで離れたわけではない。顔を合わせれば二言三言はお喋りをし、それぞれの学校に通学する仲は続いていた。

 気になったのは、時折、美晴の顔に痣ができていたことだ。彼女に問うても、曖昧な答えしか返ってこなかったが、父親から虐待を受けていたのは火を見るより明らかだった。

 康雄の粗暴振りは健在だった。恭太郎の家だけではなく、周囲の住人ともよくトラブルを起こしていた。口で説明しても康雄は聞く耳持たず怒鳴るばかりで、そんな彼に立ち向かう気骨のある者はいなかった。康雄の他人との接し方は常に一触即発の危うさを孕んでおり、少しでも境界線を越えれば暴力沙汰に発展しかねなかった。だから、近所からの風評は最悪だった。

 康雄は、警察の世話にはならないだけの要領の良さは心得ていたようだ。大声を張り上げている姿は何度か見掛けたが、実際に暴行に至ったことはない。そうなる前に絡まれた人が自重したおかげもある。しかし、恭太郎は納得できなかった。殴られたり蹴られたりしなくても、心に付けられた傷はいつまでも残り、精神を蝕むのを知っていたからだ。

 相葉家から物を壊す音や、怒鳴り声が壁を突き抜けて耳に刺さった時など、何度も通報しようかと思った。しかし、警察が介入しても家庭内の事情だ。注意するだけで終わってしまい、康雄は反省するどころか益々激昂するのは目に見えていた。それに、通報したのが自分だとばれたら、なにをされるかわからない怖さがあった。

 何度も気を揉む日があったが、恭太郎の思いなど埃よりも軽く些細なものだと言わんばかりに運命が動き、美晴は虐待から救われた。

 美晴が高校二年の時に康雄が亡くなったのだ。寝耳に水が入る如しの突然の訃報だった。原因は風呂場で溺死したと聞かされた。恭太郎にはよく理解できなかった。大海原に放り投げられたわけではない。狭い浴槽でどうして溺れ死ぬなんてことが起こるのかと驚いた。聞いたところ、入浴前に酒をしこたま飲んで、泥酔状態のまま入浴したとのことだ。そんなことは日常茶飯事だったので、美晴もおばさんも特に気に留めなかったという。

 子供特有の残酷さが発揮されたわけではないだろうが、気の毒と感じる気持ちは希薄だった。むしろ心が軽くなったとさえいえた。美晴のことを考えると、可哀想というよりも彼女の心労が消えたのだと思った。

 事件の数日後、帰宅途中で偶然クロオビと再会した。恭太郎が交通事故の現場に居合わせた日以来だ。あの時、恭太郎は小学校六年生だったから、五年振りとなる。

 クロオビは恭太郎のことを覚えていて、例の人懐っこい笑顔で近づいてきた。


「大きくなったな。もう中学生かな?」

「高校生になりました」

「そうか。お隣の女の子と同い年だったよね」

「美晴? クロ……お巡りさん、美晴を知ってるんですか?」

「あの娘のお父さんが亡くなった時、様子を見に行ったんだよ」

「お巡りさんが来てたんですか」


 考えてみれば、それもあり得る話だった。派出所によって地区の担当は決まっている。警察官の異動は三~五年だというから、彼がまだ残っていても不思議なことではない。通報された時にクロオビが勤務していたのなら、彼が確認しに来たのは自然な流れだ。


「うん。見覚えのある家だと思ったんだ。お隣さんは気の毒だったね」

「そう……なのかな」


 クロオビは恭太郎の歯切れの悪さに引っ掛かりを覚えた。


「なにか気になることがあるのかな?」

「気になるっていうか、美晴にとっては良かったんじゃないかなって思って」

「どういうことだ?」


 クロオビの表情が険しくなった。優しいお巡りさんではなく、事件に直面した警察官の顔だった。

 恭太郎は、康雄が美晴に対して虐待をしていたことを説明した。言い訳じみた話し方になったのは、クロオビの迫力に圧倒されたからだ。


「……そういうことだったのか。道理で……」


 クロオビは途中で言葉を切って考え込んだ。恭太郎は先を促したが、彼は強引に話を終わらせた。


「いや、警察官たるもの、滅多なことを口にしてはいけないな。けど、そういう事情があったなら、通報してくれれば良かったのに」

「でも……」


 恭太郎は後の言葉を飲み込んだ。警察を呼んだところで、たいして役に立たないと思ったなどとは言えなかった。


「まあいいさ。どのみち、もう終わったことだ」


 クロオビは仕事の途中だからと言って、交番に帰っていった。去り際には五年前と同じ敬礼をしていった。恭太郎の方も敬礼で返したが、それは幼さゆえではなく単にふざけてのことだった。


「なにを言い掛けたのかな……」


 クロオビが途中で止めた言葉が気になったが、なんとなしに深く考えない方がいいと思った。知ったところで、あまり愉快な気分にはならないと本能が訴えていた。

 恭太郎の呟きは、風に飛ばされて宙に消えた。

 消えたのは呟きだけではない。その後、時を経ずして美晴母娘が姿を消してしまった。近隣住人になにも告げず、夜逃げ同然の引っ越しで、転居先は誰一人として知らされていなかった。幼馴染みとの突然の別れに、恭太郎はしばらくの間、ずっと落ち込んでいた。恋愛感情など自覚していなかったが、美晴は自分にとって特別な存在だと思っていた。手元に置いておくには遠慮してしまうが、他人に奪われるのは我慢ならない。中途半端だが、切なさで胸が苦しくなる相手だった。

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