第4話 ゆびきり
翌朝、恭太郎はいつものように美晴と一緒に登校した。近所には他にも友達はいたし、ふざけてからかわれたりすることもあったが、入学した時からなんとなく続いている習慣で、今更変える気はなかった。
「昨日、またおじさんの怒鳴り声が聞こえた……」
道端で怒鳴られたことではない。あの後、夜が更けてから相葉家から罵声が漏れてきた。意味をなさない支離滅裂な怒号で、関係ないはずの恭太郎すら怖ろしくなるほどだった。
「………………」
美晴はあまり触れられたくないところを突っつかれたので、気持ちが陰って俯いた。目の下に痣があるのを見られたくないという心理も働いた。痣を作ったのは、言うまでもなく父親だった。
康雄はよく怒鳴る人だった。仕事は清掃車の運転手をしており、毎日真面目に働きに出ている。酒はよく飲むが浸る程でなく、ギャンブルに依存していることもない。外でおばさん以外の女の人と遊び回っているような浮気もしなかった。だから、漫画に出てくるようなろくでなしではなかった。だけど酷い癇癪持ちで、この前は恭太郎の父親が家の前で洗車していただけで怒鳴られていた。公道を私物化するなというのが康雄の理屈らしいが、先日が初めてではない。今までにだって何度も洗車くらいはしていた。
そのすぐ後におばさんが謝りに来ており、偶々虫の居所が悪かったと説明していた。要するに、父は八つ当たりで怒鳴られたということになる。不条理に罵声を浴びせられた父は一日中機嫌が悪く、自分まで居心地が悪い一日だった。
また、春先にはこんなこともあった。引き締まった空気がなんとなく弛緩し始めた頃の夜だった。この時期は猫の恋の季節だ。日に日に暖かくなる陽気に触発されるように、猫たちも人間みたく青春を謳歌する。それはいいのだが、甚だ迷惑なのはあの鳴き声だ。悲壮な決意を込めた告白よろしく、凄まじい声の往来、大合唱が始まる。
喧しさに目を覚ましてしまった恭太郎は、声の主を見つけようと窓を開けて外を見回した。すると、康雄が物凄い形相で表を彷徨いているのが目に飛び込んできた。明かりは月光と侘しい街灯だけだったが、少量の光源を掻き集めて、彼の目は爛々と光っていた。それこそ猫、いや猫科の猛獣のようにだ。
あまりの圧迫感にとっさに身を隠した。一瞬しか見なかったが、彼の手には棍棒が握られていた。間違いない。擂粉木のような太い棒切れだ。なにに使うかなんて疑問は飛び越して、その目的は容易に想像がついた。猫を見つけたら、あれで殴り殺すつもりなのだ。
怖さに目が冴えてしまい、その夜は布団を被って震えたまま朝を迎えた。
あんな恐ろしい男が父親で、美晴は辛くないのだろうか。一度だけ訊いたことがある。その返答は、「黙って我慢していれば、そんなに酷いことはされないから。それに、いいところだってあるし……」だった。
恭太郎には、信じられなかった。自分の父親があんな気の触れたような人物だったら、とてもではないが耐えられないと思う。美晴はよほど我慢強いのか、親思いなのか。我慢が臨界点を突破することはないのか。いずれにしても、美晴には他の子のような稚さが希薄なような印象を受けるのだ。友達を救えない自分の無力さに、何度歯を軋ませたかわからない。
「ちょっと機嫌が悪くて……。それより、昨日の事故ってそんなに凄かった?」
美晴が強引に話題を変えたので、それ以上は深くは追及しなかった。恭太郎にとっては心配事だろうと、彼女からしてみればありきたりなことなのだ。それが余計に切ない。
せっかく美晴の方から振ってきたのだ。気持ちを切り替えた。昨日話せなかった分、堰切ったように喋り出した。
「そりゃそうだよ。人が死んじゃったんだから」
「うちのお母さんなんか心配して、今日は学校まで送るとか言い出しちゃってた」
「普段から車には気をつけろって言われてるけど、昨日ほど自動車って怖いんだと思ったことはないや」
「恭太郎くんはぶつかった瞬間を見たわけ?」
美晴は、クロオビと同じような質問を投げ掛けてきた。
「ん〜……見たっていうか……」
「なによ。はっきりしないわね」
恭太郎は、昨日の現象を美晴に聞かせた。あの不可思議な体験は、両親には話していない。明確な理由は説明できないが、感覚的に、人に、特に大人に言いふらしてはいけない気がしたからだ。しかし、美晴なら長い付き合いだし、同い年という気軽さもあって話しても問題なかろうと判断したのだ。
「……それって、おじいさんが死ぬ瞬間に見た光景じゃない?」
「え?」
美晴は、恭太郎の話をすんなりと受け入れた。子供ならではの柔軟さだ。
些か間の抜けたことだが、美晴に指摘されて、恭太郎は初めてその可能性に思い至った。言われてみれば、あれは老人の視点だと頷ける点がいくつもある。車とぶつかる瞬間の、サラリーマンの驚愕の表情。直後に訪れた、天地の区別が付かなくなるほどの揺れや回転。いずれもあの老人からでしか見えない風景ばかりではないか。
自分は、死んだ人が見た風景を見ることができる? いや、衝撃や宙に飛ばされた浮遊感も感じたから、追体験というやつだろうか。
驚きとも喜びとも恐ろしさとも表現できない、感情の波が一気に襲い掛かってきた。
まだ人生経験が浅い子供であっても、死人が見たものを擬似体験できるなんて普通ではないことはわかった。
なぜそんな能力が自分に備わっているのか? 両親に相談すべきだろうか? これは友達に自慢してよいものなのだろうか?
「恭太郎くんが見たもの、私以外には喋らない方がいいと思う」
恭太郎の混乱を断ち切るように、美晴はピシャリと言った。彼女の発言は正しいと直感が訴えたが、それが型式であるかのように訊き返した。
「どうして?」
「だってそれ、普通じゃないもん。人間って自分と違う人とか普通じゃない人を分け隔てるもんなの」
「わけへだ……なに?」
「区別したり差別したりすること。仲間外れにしたり、虐めたりすることよ」
「なんで? どうしてそんなことするんだよ」
「私にも、よくわからない。きっと怖かったり、不安になったりするからじゃないかな」
美晴の言っていることは、今一つ浸透しなかったが、虐められるのは嫌だったし、昨夜両親に話さなかったのも、心の奥底でそういった事態を回避していたからだと思った。
「でも、恭太郎君がその力を正しいことに使えば、人に知られても大丈夫だと思う。それって、神様から特別に与えられたプレゼントだと思うの」
「神様からのプレゼント……」
「そう。世の中にはね、そういうすごい力を与えられた人がいるんだって、母さんが言ってた。スポーツ選手とか、絵が上手い人とか。恭太郎君も、将来は有名人になるかもね。でも、それまでは誰にも言わないこと」
「有名人? 僕が?」
「ね? そうして。私も誰にも言わないから」
「……わかった。誰にも喋らないよ。美晴ちゃんも約束守ってよ」
「私は約束を破ったりはしないよ」
美晴が右手の小指を差し出してきたので、恭太郎も倣って互いの小指を絡ませた。
「ゆーびきーりげーんまーん。うーそつーいたーら、はーりせんぼんのーます」
ゆびきりをして、約束の厳守を誓った。見た目は微笑ましい幼稚な風習だが、その起源には遊女の恐ろしい風習が隠されている。
美晴の無邪気な笑みを眺めながら、恭太郎は、そういえば死んだ老人の右手を触ったのだったと思い出していた。
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