第3話 気になる隣人
その後、恭太郎は近くの交番に勤務している警官に連れられて帰宅した。彼は大丈夫と言い張ったが、死体に触るという奇行を気にした警察官が、特別に交番に連絡をしたのだ。
呼ばれた警官はまだ若く、つい先日警察学校を卒業したばかりという感じだった。勿論、当時の恭太郎にはそんなことはわかるはずもなく、飽くまで思い返してみればの話だ。
恭太郎は、心の中で若い警官に勝手にクロオビというニックネームを付けた。クロオビはがっしりとした体格で、お巡りさんという呼称がしっくりくる感じの優しさと頼もしさを併せ持つ印象を受けたし、きっと柔道の有段者で黒帯を締めているに違いないと思ったのが理由だ。
クロオビは帰路の途中、やたらと恭太郎に話し掛けてきた。人身事故を目の当たりにした幼い子供にトラウマを残さないようにと配慮したのか、少しでも状況を把握しといた方が良いという職務的義務だったのか。おそらく両方だったのだろう。日常に交わされるお喋りといった感じで、軽い口調に終始していた。
「運転していたおじさんが、スマートフォンを弄っていた?」
「うん。そう見えた」
「じゃあ恭太郎くんは、車とおじいさんがぶつかるところを見ていたんだ?」
「違うよ。僕は大きな音がしたから振り返って、その時には……あれっ?」
恭太郎は話しながら、自分の証言に矛盾があることに気づいた。恭太郎が目撃したのは、事故発生の直後の光景だ。それなのに、なぜサラリーマンがスマートフォンに気を取られていたと知っているのか。
クロオビは、恭太郎が混乱して記憶を改竄してしまっているのだと受け止めたようだ。曖昧な笑みを浮かべて、深くは追求してこなかった。訊くべきことは訊いたと納得したのか、その後は自分の学生時代の話や、警察官を志したきっかけなど、恭太郎にとってはどうでもいいことを一人で喋り続けた。
家に着いた。警官に連れられて帰ってきたので、母は慌てふためいた。恭太郎は口早になんでもないを繰り返したが要領を得なく、母も焦って喚いたため、隣近所の住人が出てきたくらいだ。その当時は近所付き合いにも湿り気があり、野次馬根性ではなく心配して出てきたくれたのだ。
クロオビが丁寧に経緯を説明して、やっと母は落ち着いてくれた。
「脅かさないでよ。もう」
「大丈夫って何回も言ったじゃん」
何事もなかったと伝わり、出てきた近所の主婦たちは、母を中心にそのまま立ち話に興じ始めた。
クロオビも役目を終えたので交番に戻った。去り際に敬礼をしたので、恭太郎も同じポーズで返礼した。クロオビは恭太郎の仕草に嬉しそうに破顔して帰っていった。人懐っこい優しい笑顔だった。
「あなたはもう、家に入ってなさい」
現金なもので、恭太郎が怪我一つしていないことがわかった母は、普段通りの態度に戻っていた。近所の主婦たちとのお喋りは、交通事故の怖さから始まり、なぜか学校の責任や最近の治安の悪さにまで発展していた。
「わかった」
興奮は治まらなかったが、おばさん連中のお喋りに参加する気もなく、おとなしく家に入ろうとした時、仔猫の鳴き声のような声が滑り込んできた。
「恭太郎くんが事故に遭ったんじゃなくて、よかったね」
「美晴ちゃん……」
声を掛けてきたのは、隣に住む
恭太郎と同い年で、小学校のクラスも一緒だ。男の子と女の子ではあったが、性の違いなど意識する年齢ではない。よく二人で遊んでいる間柄であった。
「交通事故に遭ってたら、恭太郎くん、学校休まなくちゃいけなくなってたね」
「休むどころじゃないよ。死んじゃってたかも知れないんだから」
不謹慎にも、恭太郎は目撃したことを話したくなった。大人にも子供にも言えることだが、誰も経験したことのない話は、周囲から注目される。聞かせてくれとせがまれて人気者になれる。恭太郎は美晴の気を惹きたかった。恋愛感情が確たるものになってはいなかったが、単純に女の子から愛想のよい笑顔を向けられたかった。
「最初は凄い音がして……」
意気揚々と語りだそうと口を開いたが、ほぼ同時に相葉家の窓も開いて、中年の男が顔を出した。
堕したばかりの顔には既に憤怒を滲ませており、不機嫌なのは明らかだった。
「おまえら、人ん家の前で喧しいぞっ」
怒鳴ったのは美晴の父親である
「お父さん、いきなり怒鳴らなくても……」
美晴がその場を治めようと宥めたが、彼は聞く耳を持たなかった。
「俺は間違ったことは言ってねえっ。美晴っ。さっさと家に入れっ」
そう言って、康雄は乱暴に窓を閉めた。あとには完全に白じんだ空気が残され、主婦連中は苦笑とぼやきを余韻として解散した。
美晴は誰に対してというわけでもなく頭を下げ、恭太郎に「また明日」と言い残して家に戻っていった。
「恭太郎、あなたも家に入りなさい」
母に言われておとなしく従ったが、恭太郎の胸の内にはモヤモヤとした気持ちが残った。まだ子供である自分が大人の康雄に敵うはずもなく、あの場にクロオビがいたら康雄を注意してくれたのかな、などと考えた。
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