第2話 雲一つない空の下で
風が通り過ぎる度に体温と元気を奪われるような肌寒い日だった。秋も深まり、あと十日過ぎれば十一月に入る。
「今夜はクリームシチューだったら嬉しいのにな」などと考えて歩いていた。友達と遊んだ帰り道だ。普段使う道とは微妙にずれた道だった。その日に限ってそこを通ったのは、その道が開通されたばかりで、綺麗なアスファルトの上を歩いてみたかったからだ。
いつもより足裏にしっくりと馴染むような感覚に上機嫌でいると、なんの予告もなく、耳の穴に激しい音が突っ込まれた。今まで一度も聞いたことがない凄まじい音だった。なにが起きたか判然としないのに、絶対によくないことが起きたのだと確信させる、圧倒的な破滅的な音だった。
とにかく突然のことだったので、混乱と戦いながら身の安全を確認した。無傷であることを確認すると、やっと背中をピリピリと伝う電流が治まった。
混乱から立ち直り周りを見渡す余裕が出た。視線を巡らすと、やっと異常な事態が展開されている場所がわかった。さほど離れていないにも関わらず視界に入らなったのは、それほど意識が萎縮してしまっていたせいだろう。
「おじいさんっ。大丈夫ですかっ。おじいさんっ」
男が屈みこんで必死に呼び掛けていた。ワイシャツを着てネクタイをしている痩せた男だ。幼心に、父と同じように会社で働くサラリーマンだろうかと思った。
屈みこんでいる男の膝下には、血を流している老人が地面に寝ていた。仰向けになって空を見上げているが、サラリーマンの呼び掛けにピクリとも反応しない。
車道のほぼ中央に滅茶苦茶に壊れた自転車が転がっており、その横にはノッチバックセダンが停車していた。なんの変哲もないありふれた車種だが、バンパーが派手にへこんで歪んでいた。修理不可能なまでに壊れた自転車も、窪みが生じた自動車も、恭太郎は初めて目撃するものだった。
壊れた物と動かない人。それで、ああ、交通事故が起きたんだと今更ながらに理解した。さっきの激突音は普通ではなかった。サラリーマンは必死に呼び掛けているが、もう老人の死を覚悟しているのは確実だった。ただ、ああでもしなければ人としての道徳に外れるから、自分に対して演技をしているだけだ。それとも、傍らで佇んでいる恭太郎に対してなのかも知れない。
場所は横断歩道だったが、信号機がなく区画線だけが引いてあるタイプのもので、恭太郎が今さっき渡ったばかりだった。
運転していたサラリーマンは、書類の確認でもしていたのか。スマートフォンでも弄っていたのか。それとも残業に次ぐ残業で寝不足気味だったのか。とにかくよそ見をしていて、横断中の老人に気づかず、ほとんどブレーキを踏まないで突っ込んだに違いない。この道はまだ新しく、広く知られていない。車の往来も人通りも少なかった。それゆえ、油断したのだろう。少しタイミングがズレていたなら、今地面に寝そべって大空を仰いでいたのは自分だったかも知れないのだ。
恭太郎はまだ幼かったが、命の尊さはわかっていた。同年代の男の子がトンボの羽を千切って放置したり、寿命を迎えて地面に仰向けになっている蝉を野良猫に向かって投げるようなことはしなかった。
重さを知っているからと言って、消えゆく命を救えるわけではない。それなのに、恭太郎はなにかに導かれるように倒れている老人に近づいた。
サラリーマンは、少しだけ冷静さを取り戻していた。スマートフォンを耳に押し当て、懸命に状況を説明している。警察に連絡しているのだ。顔にも声にも絶望が滲み出ており、自分が轢いてしまった老人の命は、既に諦めているように見えた。
恭太郎は老人の右手に触れた。理由は説明できない。ガラス玉のようになった眼を見て、寂しそうだなと漠然と思っただけだ。なぜ右手だったのかはわからない。なにかを計算して右手にしたわけではなかった。敢えて言うなら顔面は血塗れだったし、左手より右手の方が近かったからに過ぎない。
「きみっ、触っちゃ駄目だっ」
サラリーマンは、恭太郎に向かって叫んだ。現場を動かしてはいけないといううろ覚えの知識を思い出したのか、或いは幼い子供に死体を触らせるのは禁忌だと思ったのか。しかし、恭太郎は既に老人の右手を握っていた。
姿形はなにも変わっていないのに、明らかに生者とは異なった手触りだった。生命力が抜け落ちたただの物体で、目の前の物が何十年と時を経て生きてきた者である方が不思議なくらいだった。
「あ……」
もう手を離そうと思った時、恭太郎の視界が歪んだ。最初は目眩を起こしたのだと思った。大量の流血は、思っている以上に精神に食い込んだのかと思ったが、それは違かった。
映画が始まる時の劇場の照明のように、徐々に暗くなった。そして完全に闇に包まれた瞬間、目の前に自動車が突っ込んできた。
「うわああっ」
混乱に陥りながらも、流れる映像はひどく緩慢に映り、詳細までがはっきりと認識できた。
運転席に座ってハンドルを握っているのは、サラリーマンの男だった。スマートフォンを片手にディスプレイに見入っていて、こちらのことなどまるで気がつかない。だが、信じられないくらい重たい衝撃を感じた時には、青ざめて怯えた目を見開いていた。
ぶつかったと思った時には、視界がひっくり返っていた。玩具箱の中身をぶちまけたようにぐしゃぐしゃになり、天と地の区別もつかなかった。
景色が激しく揺れた後、視野いっぱいに青い空が広がった。地面に叩きつけられたのだとわかった。そして再び、視界が暗転していった。
「きみっ、触るなと言ってるだろうっ。離れてっ」
サラリーマンが恭太郎の手を引っ張って、強引に老人から引き剥がそうとしていた。恭太郎は抵抗するでもなく、おとなしく立ち上がった。抗おうにも気を失ってしまっていた。
風と共にサイレンの音が流されてきた。サラリーマンが警察に連絡したので、救急車もやってきたのだ。気を失っていたのは僅かな間だったようだ。サラリーマンが恭太郎を揺り動かさなければ、もっと長く気絶していただろう。しかし、意識を取り戻してからの方が動転してしまい、まともに思考が働かなかった。
今のはなんだったんだろう?
救急車とパトカーが到着し、現場が俄に騒々しくなってきた。とは言っても、救急隊員や警官以外はサラリーマンと恭太郎しかおらず、相変わらず通行人はいなかった。
サラリーマンにとっても老人にとっても、最悪のタイミングだったわけだが、やはりスマートフォンに気を取られて前方注意を怠っていたサラリーマンに非があるのだろう。
恭太郎は担架に乗せられた老人を目で追った。相変わらず光をなくした目で空を眺めているが、もうなにも映ってはいまい。
恭太郎は老人の映らぬ視線を追って空を見上げた。この季節にしては珍しく、雲一つない蒼穹だった。
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