第1話 悲劇のお膳立て

 開通したばかりの新道は、見ているだけで気持ちよかった。まだ足跡もタイヤ痕も付けられていない道は、どこか違う国に繋がっている幻想を抱かせ、伊東正義いとうまさよしは年甲斐もなく気持ちが浮き立つのを自覚した。


「なんであれ、新しいというのはいいものだな」


 彼が跨っている自転車も新品だった。以前から入手したいと狙っていた、スポーツサイクルだ。こんなものを走らせているだけで、実際の年齢より十歳は若返った気になる。本当なら、思い切ってロードバイクを購入しようと考えていたのだが、妻の佳代子かよこに危ないからと懇願されて、クロスバイクにした。それでも佳代子は不安そうだったが、自分よりも年配の老人が自転車レーンを颯爽と駆け抜ける姿は何度も見ている。まったく運動しないで痴呆になってもいいのかと無茶な理由で、なんとか説得した。

 高揚感で若返った気がするだけで、実際の自分はずいぶんとくたびれてしまった。先日、誤って自動車のドアに親指を挟んでしまい内出血した跡はまだ消えないし、物忘れもひどくなっている気がする。今日だって自転車の鍵がないと散々探して、結局ポケットの中に入っているのを見つけた。自分の間抜けさと佳代子に怒鳴ってしまったばつの悪さで、苦笑せずにはいられなかった。

 無理もないと自嘲する。家のローンは完済し、孫も高校生になった。長年勤めた食品会社を定年退職した後、マンション管理の仕事を十年勤めたが、そっちも三ヶ月前に退職した。

 人々から羨望の眼差しを向けられるほどの出世はしなかったし、多くの恥や屈辱も経験した。それでも豊かな色彩に溢れた実りの多い人生だったと思う。大きな声で自慢できるような街道ではなかったが、卑屈になるような惨めな裏道でもなかった。

 伊東は自分の人生に満足していた。若い頃には牙のように尖った野心を抱いたこともあったが、年齢を重ねるごとに丸みを帯び、衣食住の足りた生活が如何に恵まれているのかがわかるようになった。そして、そんな生活を守るのに、人は必死に毎日を闘っているということも。人生の酸いも甘いも噛み分けた彼の最後の望みは、穏やかな死を向かえることだった。

 思いがけず回想に浸ったことが稚気を呼び起こした。これまでは隔てられてあまり足を運ぶ機会がなかった地域まで、行ってみることにした。美味しいパン屋が見つかるかも知れないし、気持ちのよい公園で休憩できるかも知れない。なにより、真新しい道に自分が通った形跡を残したかった。のんびりと、今日一日を使うつもりで行こう。なにしろ時間はたっぷりあるのだ。


「なんだか、わくわくするな」


 伊東は独り言ちて微笑むと、ペダルを踏む足に力を込めた。



 ポケットの中でスマートフォンが鳴り振動を始めたので、吾妻洋一あづまよういちは思わず舌打ちをした。彼は営業車を運転して帰社する途中だった。


「こんな時に連絡なんかしてくんじゃねえよ」


 着信音はお気に入りの歌謡曲をオルゴール風にアレンジしたものだった。ドラマのオープニングにも使われている人気曲だったが、機嫌が悪かった吾妻にとっては、神経を逆なでする雑音に堕していた。

 今日は朝からツイてなかった。通勤電車ではOL風の女性に背中をグリグリ圧されて不愉快だった。彼女はスマートフォンを弄っていた。文句を言いたかったが、体を捻ることもできないほどの混雑ぶりだったし、下手に絡んで痴漢扱いされるのは嫌だったので、降りるまでひたすら我慢した。出社してコーヒーを淹れようとしたら愛用のカップを落として割ってしまうし、とっくに終わっていたと思っていた仕事の書類に記載ミスがあったとのことで、上司にたっぷり嫌味を言われた。今日は悪い流れが身に降りかかる日だなと用心していた。

 どんなに注意していても、不運というものは避けようがない。今は取引先からクレームを受け、謝りに行ってきた帰りだった。しかもクレームの原因は自分ではなく、堀越という彼の先輩にあった。堀越は昨日から出張で長野県に行っているからと押し付けられたのだが、いざ謝りに行ってみると、相手の剣幕は凄まじいものだった。何度も頭を下げて、発生した損失分は必ず補填すると約束させられ、やっとの思いで引き上げてきた。

 建物を出る時には、これも仕事のうちだと無理やり自分を納得させたが、人間そう簡単に割り切れるものではない。だんだんと頭が熱くなり、腹の奥に沈んだ黒い感情が煮えたぎっていくのを抑えられなかった。堀越は普段から行動が大雑把で、あまり好きではなかったことも怒りの炎をより燃焼させた。なんで俺があんないい加減な奴の尻ぬぐいなんか……。

 こっちは運転中なんだと電話を無視していると、やがて着信音と振動が止んだ。


「やめちまおうかな。サラリーマンなんて……」


 今の仕事が好きなわけではない。生活の糧を得るために働いているに過ぎない。雇ってもらっているという恩義は感じているし、それなりのやりがいもあるものの、ストレスで人生を腐らせるほどの忠義心はない。しかし、辞めてどうなる? これといった夢も目標もないまま漠然と生きているだけの自分だ。今の仕事を手放したら、社会復帰などできないのではないだろうか。アルバイトを転々として自分に合った仕事を探すとしても、結局は宮仕えの身分に変わりはない。そんな怖れが、唯一の繋ぎ止める鎖だった。

 悶々とした気持ちでハンドルを握っていると、再びスマートフォンが着信を告げた。さっきの着信から一分と経っていない。よほどの急用か深刻な問題でも発生したか。


「まさか、またクレーム処理に行けってんじゃねえだろうな」


 先ほどの屈辱が甦り、アクセルを踏む足に力が籠る。少し飛ばし過ぎとの自覚はあったが、それがどうしたと開き直る気持ちもあった。現在走っているのは、完成したばかりの新道だ。まだ認知度が低く、利用者は少ない。今だって前後には車の影もなく、貸し切り状態だ。轍のない綺麗な道を独り占めする快感は吾妻を大胆にさせ、より深くアクセルを踏み込ませた。その間も、着信音と振動は続いていた。


「……しつけーな」


 会社に戻ってから、なんで電話に出なかったのか追及されるのも面倒だ。なにしろ、今日はよくない流れの日だ。もし、また面倒事の処理だったら他の者に出向いてもらおう。そう思いながら、ポケットをまさぐった。

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