3.優しい魔物

 何もない静かな石の塔では、時が経つのが途方もなく長く感じられる。

 明かりを灯すものもないため、頭上高くにある小窓から差しこむ光だけが、時間を知る唯一のすべだ。


 最初は日に二度届けられていた固いパンと水も、数日経過すると日に一度に減らされ、さらに数日に一度に減らされ、やがて届けられなくなった。

 もう何日閉じこめられ、飲まず食わずでいるのかも、令嬢には分からなくなっていた。


 ただ、我に返った王が優しい心を取り戻し、令嬢を牢獄から救い出して、抱きしめてくれる――そんなことを夢見て、令嬢は待ち続けていた。


 救いになど来るはずがないと分かっていても、そう願わずにはいられなかった。

 待てども待てども、願いが叶うことはないのだけれど。


 令嬢は心身共に衰弱し、力なく石壁にもたれて、涙の枯れた虚ろな目で闇を見つめていた。


(……闇がわたしを見ている……いつからそこにあるのか分からないけど、わたしをずっと見ている気がする……真っ黒い闇……)


 部屋の片隅に、小さく丸い真っ黒い塊が見える。

 黒い塊は日が傾くにつれ、徐々に大きくなっていき、小さな子供くらいの大きさになった。

 日が落ちきると同時に、黒い塊は動き出し、令嬢の方へと向かってくる。


(……真っ黒い闇が、近づいてくる……あれは、魔物? それとも、死神? ……どちらにしても、わたしはもうじき死ぬのね……)


 異様な何かが向かってきても、令嬢は逃げることも怯えることもせず、すべてを諦めてただ真っ黒い闇を見つめていた。


 ぐにゃぐにゃとした不定形の黒い塊は令嬢の方へと近づき、触手のような真っ黒い手を伸ばしていく。

 令嬢はこれで終るのだと目を閉ざし、静かに最期の時を待った。


 真っ黒い手が、令嬢の唇に触れる――



 こくん。



 ――令嬢の枯れきっていた喉奥に雫が流れ落ちていき、じんわりと身体に染み渡っていく。



「……水……ゆっくり、飲んで……」



 黒い塊は人の言葉を話した。独特な響きのある声。

 令嬢は驚きつつも促されるまま、こくんこくんと水を飲んでいく。

 ほんのり甘くすら感じられる清涼な水は、朝露の滴る草の匂いがする。



「……林檎……少しずつ、食べて……」



 食べやすく潰した林檎の味が、口内に広がっていく。


 令嬢は育ての親のシスターが作ってくれた、好物だった林檎のパイを思い出す。

 令嬢もよく作り、王子と一緒に食べた。素朴な味が美味しいと喜んでくれた。

 記憶が思い起こされ、嬉しかった思い出や楽しかった思い出が溢れ出してくる。


「……ぁ、……っ……ぅ……」


 とうに枯れ果てたと思っていた涙がまた溢れ出し、令嬢は小さな嗚咽をもらして泣いた。


 令嬢の頬を伝う涙を、真っ黒い手が拭っていく。

 黒い塊は令嬢の頭を優しく撫で、囁いた。


「……泣かないで、リリス……」


 黒い塊は令嬢の名前を呼んだ。

 聖女と呼ばれるようになってから、呼ばれることのなくなった、忘れられた令嬢の名前。


 しばらくして、慰められた令嬢が泣き止み落ち着くと、今度は疑問が溢れ出す。


「……どうして、わたしの名前を知っているの?」

「見ていた。リリスの夢を見ていたから」


 『見ていた』と告げられ、令嬢は時々何かに見られている気配を感じていたことを思い出す。

 だが、『夢を見ていた』とはどういった意味なのか、よく分からなかった。


「貴方は、誰? 何者なの?」

「闇の魔物……人はナイトメアと呼んでる」


 黒い塊は己のことを『闇の魔物』と名乗り、令嬢は困惑する。

 令嬢も他の人々と同じく、魔物は醜く怖ろしい生き物で、人に害を及ぼす危険な存在だと認識していたのだ。

 そのため、令嬢は魔物に近よらず、関わることなく過ごしていた。


「どうして、優しくしてくれるの?」

「リリスは助けてくれた。だから、リリスを助けたい」

「わたしが魔物を……貴方を助けたの?」

「傷を負って死にかけていた。リリスは花を咲かせて癒やしてくれた――」


 人々は魔物を醜い化物だと不気味がり、実害がなくとも迫害していた。

 けれど、闇の魔物は人が好きだった。人の見る楽しい夢や、幸せな夢が大好きだった。

 夜な夜な闇に紛れて人に近づいては、夢を覗き見ていたのだ。


 闇の魔物は夢を食べることができる。

 悪夢にうなされる人を可哀想に思った闇の魔物は、悪夢だけを食べていたのだが、夢の途中で目覚めた人に悪夢を見せる魔物だと誤解された。

 怒り狂った人に刃物で切りつけられ、闇の魔物は殺されかけたのだ。

 命からがら逃げたものの、深手を負っていた闇の魔物は力尽き、草むらで倒れてしまった。


 苦痛に喘いでいれば、呻き声に気づいた人が近づいてきて、今度こそ殺されると闇の魔物は覚悟した。

 だがしかし、与えられたのは痛みでも終わりでもなく、闇の魔物を祝福する癒しの花の奇跡だったのだ。


「――リリスは奇跡の花を咲かせてくれた」


 その話を聞いて、令嬢はふと思い当たる。

 たしかに、真っ黒い人影が深傷を負い蹲っているのを見つけ、傷が治るようにと祈り、祝福の花を与えたことがあった。

 令嬢の目には人々の姿が真っ黒く染まった醜い化物に見えていたので、黒い魔物との見分けがつかなくなっていたのだ。


「だから、リリスを助ける。さぁ、ここから出よう」

「ここから……?」


 闇の魔物が真っ黒い手を差し出すと、令嬢はその手を見つめ逡巡しゅんじゅんして首を横に振る。


「できないわ。わたしはどこにも行けない。ここで待つことしか許されないの」


 王に毒花を与えてしまった自責の念から、令嬢は愛する婚約者や人々を放って、どこかに逃げることなどできはしない。

 闇の魔物は、どんなに酷い仕打ちを受けていようとも、人々から離れようとしない令嬢を不憫ふびんに思う。

 けれど、それでも人と共に生きたいのであろう令嬢の気持ちを汲んで、闇の魔物は無理強いしなかった。


「リリスはまだ弱って動けないだろうから、今はせめて幸せな夢を見て欲しい」

「幸せな夢? 夢を見せてくれるの? ……いえ、でも、いくら夢見ていても現実は何も変わらない。きっと、また虚しくなるだけだわ……」


 どんなに待ち続けていても、決して救いになど来ない王のことが脳裏をかすめ、令嬢は胸が張り裂けそうに痛んだ。

 涙を浮かべる令嬢は弱々しく首を振る。


「それに、わたしはもう祝福の花を咲かせられないの。何かしてもらっても、返せるものが何もない……」

「そんな悲しい顔しないで、リリス。大丈夫だから、心配しないで」


 涙を堪えて震える令嬢の頬を撫で、闇の魔物は足元に散らばる花の残骸を指して言う。


「何もないなんてことはない。リリスはこんなにキラキラした愛を持っているんだから。対価が気になるのなら、この花を分けて欲しい」

「こんなもの、なんの価値もないのに、どうするって言うの? もう、なんの意味もないのに……」


 朽ちて塵芥ちりあくたになってしまった花の残骸を闇の魔物は丁寧に拾い集め、己の闇の中へと取りこんでいく。

 すると、黒一色だった闇の魔物の中に、無数の小さな光が出現しはじめる。



 キラリ、キラリ。キラキラ、キラキラキラキラ――



 それは、小さな宇宙――満天の星々が輝く、美しい夜空のようだった。

 夜空は大きく広がっていき、令嬢の身体を毛布のように優しく包みこんでいく。

 壁や床に小さな光が反射して、まるでそこら中が星屑の散りばめられた夜空。

 星が瞬く夜空を浮遊しているような、そんなふわふわとした気持ちに令嬢はなっていく。


「……きれい……」


 その夜空の美しさに見惚れ、呟きをこぼした令嬢の表情はほころぶ。

 無価値と言われ捨てられてしまった花が、こんなにもキラキラと輝く綺麗な星空になった。

 そのことが、令嬢には嬉しく思えたのだ。

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