連綿

十余一

見えない扉

 建物が取り壊された跡地を前にして、首を捻った経験があるだろうか。

 目にしていたはずなのに、そこにどんな建物があったのか思い出せない。何度も通りかかった道で、視野に入っていたはずなのに覚えていない。見たはずなのに、見えない。


 僕は今まさに遭遇している。記憶に焦点が合わず、朧気なイメージだけがぐるぐると脳内を巡っている。

 首をかしげ、特に意味もなく空を見上げ、そうしてまた更地に目をやった。すると、どうだろう。扉が一つ、佇んでいる。先ほどまで小石と雑草しかなかったはずの場所に、不自然なほど整然と構えている扉。古びているが艶やかさを失わない檜皮色ひわだいろに、波のような装飾が美しい。


 どう見たって怪しげだ。しかし、往来の誰も気にする様子はない。興味が無いのか、気付かないほどに忙しないのか。あるいは僕にしか見えていないのか。

 いずれにせよ誰一人として見向きもしないそれに、不気味さと同時に哀れさすら感じてしまう。そうして好奇心が警戒心をわずかに上回り、明かり窓から漏れる光に誘われるようにして、僕は少しくすんだ金のドアノブを回した。


 扉を開けた瞬間、ザァっと風が吹き抜けてゆく。踏み出した一歩を受け止めたのは、更地の砂利ではなく柔らかな緑だった。目線を上げれば、どこまでも高く澄み渡る空。天上を狭める無骨なビルも煩わしい雑踏の音も存在しない。ましてやガムの吐き捨てられた道路なんてあるはずもない。


 清らかな水辺では蓮が天に向かって咲き誇る。羽衣のような花びらが陽光を透かし、青々とした葉の上で転がる雫は煌めいている。その傍らでは、今まさに丸木舟が静かな湖へ漕ぎ出さんとしていた。反対側へ目をやれば竪穴住居が並んでいる。人々は真麻まおで編まれた服を翻し、豊かな自然の中で歌うように暮らしていた。


「ここはいったい……」と、思う間もなく日が暮れ、何ものにも邪魔されない降るような星空が瞬き、たちまちに夜が明ける。


 幾度となく昼夜が繰り返され、その度に周囲は目まぐるしく変化していく。人々は時に争いながらも寄り集まっていく。賑やかな市場に、折烏帽子おりえぼしを被った男性の高らかな声が響く。小袖こそで姿の女性たちが楽しそうに連れ立って歩く。高台から街を見下ろす壮大な城は、やがて攻められ焼け落ちた。それでも人々は相も変わらず生活を営んでいく。時が経つほどより鮮やかに文化は華開く。


 暗い影を落とす時代もあった。天災、あるいは人の手によって人家は尽く破壊される。住処を失った人々の目には、変わり果てた大切な存在と、悪夢のような火の空が焼き付いている。それでも、やはり人々は相も変わらず生活を営んでいく。何度打ちのめされようとも再建し、更なる発展と豊かな暮らしを求めた。


 今とそう変わらない街並みになったとき、僕の前に再びあの扉が現れた。今度は扉に、ちゃんと建物もついている。真っ白な壁にオレンジ色の屋根の小さな店。


 そうだ、思い出した。ここは老夫婦がやっていたパン屋だった。店内には卵サンド、コロッケパン、メロンパン、クリームパン、コーヒークリームパン、チョコピーナッツパン、甘食、クッキーなんかが所狭しと並んでいる。ショーケースの中には大きなアップルパイと簡素なチョコケーキ。

 勤め人、学生、子どもの手を引いた親、みんな思い思いの商品を買って、笑顔で扉をくぐる。白髪の店員がそれを笑顔で見送る。

 最近は足が遠のいていたからすっかり忘れていたけれど、僕はこの店のチョコピーナッツパンが好きだった。懐かしい。どうして忘れてしまっていたんだろう。


 僕はいつの間にか、元の更地に立っていた。茜色に染まる空で烏が鳴く。帰路を急ぐ人々の雑踏、どこからか漂ってくる夕飯の香り、建物が取り壊された跡地、街の光にかろうじてかき消されなかった一番星。そんなものに溢れた日常に戻っていた。不思議な扉など初めから無かったかのようだ。


 それでも積み重ねられたものの鼓動だけは感じる。街は生きている。そこに住む人々の営みが連綿と続き、僕らはその上で生きている。見ようとしないから見えないだけで、それはずっとそこに存在している。



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連綿 十余一 @0hm1t0y01

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