第11話

 水原さんがわざわざ音楽室を選んだのは、多分人が来ない利点があったからだろ。

 ここ暑いから、先輩たちもあんまり来ないし……。

 それにしても音楽室はキツい、白雪さんは大丈夫かな……。


「白雪さん……、アイス……指先についてます。溶ける前に……早く」

「…………」

「えっ……?」


 なんで溶けたアイスがついてる指先を俺に見せるんだろう……?

 その顔……、ずっとこっちを見てるその顔……。何かやってほしいって言ってるような白雪さんの顔。今はハンカチ持ってないから……、どうしたらいいのか分からなかった。そして反対側の手も、持っているアイスのせいで手がベタベタしていた。


「何してんの?」

「はい……? あの、ハンカチとか持ってないんで……」

「じゃあ、舌で舐めてよ」

「…………ここで、ですか?」

「じゃあ……、このまま私を放置する気?」

「すみません……」


 二人っきりの時なら気にしないけど、今はすぐ隣に水原さんがいて……ちょっと恥ずかしい。でも、やらないと白雪さんに怒られるし……。一人でいくら悩んでも選択肢は一つしかないってことを、俺はちゃんと知っていた。


「やらないの?」

「いいえ。やります……。ちょっとぼーっとしてました」

「私と話す時は、私に集中して」

「はい……」


 で……、生まれてから初めて人の指を舐めてみた。

 なんか……これって、すごく……「下」って感じ。

 見下す白雪さんの視線が感じられて、二人が見ている音楽室の中で……俺は頑張って白雪さんの指を舐めていた。ゆっくり……、ゆっくり……。ちゃんとやってあげると、多分怒らないはずだ……。それしか考えていない。


「わぁ……、美波ちゃん普段からそんな恥ずかしいことさせるの?」

「うん……? そう? 樹くんは私の言うことなんでもやってくれるから……、そんなこと…考えたことないよ」

「へえ……。ねえねえ……! 教えてよ。どうやって付き合ったの?」

「あ、あの……。水原さん!」

「樹くん? 隅々までちゃんと……しないと…。私、手がベタベタするのは嫌だからね?」


 水原さんが誤解してるかもしれないから、すぐ反論したかったけど……。

 指先で唇をぎゅっと押す白雪さんに、すぐ一言を言われてしまった。

 

「…………」

「へえ……、雨霧くんって美波ちゃんの話には逆らえないんだ……?」

「そうかな?」

「なんか……可愛いね。美波ちゃんの彼氏」

「……そんなことないよ。芽依もカッコいい彼氏いるでしょ?」

「私の彼氏は……、雨霧くんみたいに可愛くないから……! 毎日エッチなことばかり言うし……」

「ふーん」


 それで……、俺はいつまで白雪さんの指を舐めればいいんだ……?

 今は水原さんと話しているから、声をかけるのもあれだし。そばからその横顔を見上げて、話をかけてもいいタイミングを待っていた。なんで俺がこんなことをやってるんだろう……。そんなことを考えるのも、いつの間にか諦めてしまった。白雪さんが笑ってくれるなら……、俺もそれでいいと思うだけ。


 深く考えるのはやめた。


「ありがとう。樹くん……」

「は、はい……」


 怒らない時が一番いい……。

 そして。

 怒られるのが一番怖い……。


 今はそれしか考えていない俺だった。


「しかし、雨霧くんのおかげかな? 私が何をしても反応しなかった美波ちゃんが最近はイキイキしてるように見える。今のもさ……、普段なら電話で早くきなさいとか言うところだったのにね」

「芽依が変なことをするから……」

「ずっと部室にいるのは寂しいでしょ? なんか楽しいことやらないと! 青春!」

「楽しいことなら、樹くんとやってるし。芽依は心配しなくてもいい」

「…………もしかして……、あれなの?」

「うん……?」


 首を傾げる白雪さんとにやつく水原さん……、なんか気まずい。

 まさか、このまま部室に戻ったりしないよな……。


「そろそろ、部室に行こう。今日は読みたい本もあるし、音楽室は暑いから」

「芽依読書してたの?」

「え! 私だって、ちゃんと本読んでるし! 最近は彼氏のせいで……! その…読めなかっただけだよ」

「そう?」


 やはり部室に行くのか……。

 人が増えるのはいいことだけど……、俺には良くないかもしれない。白雪さんと話すだけで十分緊張してるのに、また女子が増えるなんて……。しかも、水原さんは白雪さんの一人しかいない友達だから……。もし、俺が変なことをすると……その時は二人に怒られるかもしれない。


「何してんの? 樹くん」

「いいえ! 行きます!」

「樹くん」


 音楽室の前で手を差し出す白雪さんに、俺はぼーっとしていた。


「な、なんですか?」

「手、繋ぎたい」

「でも、まだアイス全部食べてない———っ」

「体が冷えるから……、これは樹くんが食べてほしい。そして……私ウェットティッシュ持ってるから大丈夫」

「…………」


 そう言ってから、食べかけのアイスを俺に食べさせる白雪さん。

 うん……? ちょっと待って白雪さんはウェットティッシュを持ってたのに、わざわざあんなことをさせたのか……。

 なんで……? なぜ、そんなことを……。


「へえ……、樹くんの手は温かいね」

「そ、そうですか? 白雪さんはずっとアイスを食べてたから……、手が冷えてますね」

「うん。だから私の手を温めて」

「はい……」


 分からない。白雪さんが何を考えているのか、俺には分からなかった。

 ただ……、彼女からもらったアイスを食べながら部室に向かうだけ。


「二人とも〜。早く!」

「は、はい!」


 気のせいか……? 口の中から言葉で説明できないそんな味がした。

 白雪さんが食べていたアイスだからか……。

 でも、自分が食べていたアイスを相手に食べさせるなんて、そんなこと普通にあるのかな。いや……あの人もあんな風にやってたから、普通の人たちはどうなのか分からない。いまだに覚えているのは……、優しい声に隠れているあの人の本性。トラウマなって心の底に刻まれた記憶。どうしてもそれを忘れられなくて……、俺は白雪さんに何も言えなかった。

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