第12話 私が旅に出た理由
子供の頃の、いや、高校二年生のあの日まで白坂雪菜は幸せだった。
私が生まれ育ったのは東北地方の小さな町で、共働きの両親と私の三人家族。
ごく普通の家庭だったけど、たぶんそれが一番幸せだったんだと今では思っている。
勉強は少し得意で運動は苦手。
一人っ子で甘やかされたせいか、生まれつきの性格かは分からないけど、気が弱くて泣き虫で、教室の隅で数人の友達とヒソヒソと話をするようなどこにでもいる普通の学生だった。
そんな平凡な私の幸せが一瞬にして崩れ去ったのは、今から約九か月前の高校二年の六月下旬の事だった。
授業中だった私はいきなり担任の先生に呼び出され、学校の応接室で教頭先生と学年主任の先生に私の両親が事故にあった事を告げられた。
夫婦二人で行った旅行先で乗ったバスの事故。
テレビのニュースでも連日報道された大きな事故だった。
警察からの連絡で両親が亡くなった事を聞かされても私には実感がわかなかった。
テレビから流れる事故現場の映像を他人事のように眺め、お母さんからの最後のメッセージを何度も読み返す。
”明日の夕方には帰るからね!おみやげ楽しみにね!”
お父さんとお母さんが亡くなったのは頭では理解していた。
お通夜やお葬式に来てくれた人も親戚も皆泣いていた。
だけど、悲しいはずなのに......あんなに泣き虫だった私は一滴の涙も出なかった。
まだ未成年だった私は、これから一人で生活していくことは出来ないらしく、お父さんの妹の陽子叔母さん夫婦が私の保護者になってくれる事になった。
私はこんな性格だから、周りの大人がああした方が良い、こうした方が良いという事を迷惑を掛けないようにただ黙って受け入れた。
短期間で私の意思とは関係なくあっという間に変わってしまった環境の中、お父さんとお母さんの死に対して未だに泣くことが出来なくて、独りぼっちになったリビングでお母さんからの最後のメッセージをただ眺めるだけの日々が過ぎた。
そして去年の八月末に陽子叔母さんの所に引き取られて、生まれ育った家を後にして南関東地方に移り住んだ。
始まった知らない生活。
知らない町。知らない家。知らない部屋。知らない学校。
編入した高校では物珍しさからか、初めは注目を浴びてしまったけど、もともと気が弱く、更に両親の事で塞ぎこんでいた私だったから、初めは声を掛けてくれたクラスメイトも減っていき、ひと月もしたら私の周りには薄い関係の数人のクラスメイトが居るだけになった。
両親が居なくなったことは頭では理解していても、私は受け入れる事が出来なくて、泣くことも出来ず、心に穴が空いたままただ流されていく生活。
そんな毎日を繰り返していた私に、二つの大きな変化が起きたのは十二月に入ってからだった。
一つはエイプのこと。
十二月初めのある土曜日、私は陽子叔母さんに庭の物置からコタツを出すのを手伝って欲しいと頼まれて、手伝っていた私の目にある物が映った。
車庫の隅に置かれたそれは暫く誰も触っていないのか、埃の積もった銀色のカバーが掛けられていて、カバーの隙間から自転車とは違う太いタイヤが覗いていた。
私もオートバイという乗り物が存在しているのは当然知っていた。
だけどそれは知識として知っているだけで、私の生活や人生とは接点がなくて、今後も関わる事なんで無いものだと、いや、そんな事すら思った事もない無縁の乗り物だった。
「ああ、そのオートバイ
美羽ちゃんは陽子叔母さんの一人娘で私の三つ上、今は札幌の大学に行っていてここには住んでいないけど、私も小さいころ遊んでもらった事がある。
私は陽子伯母さんの話しを聞きながら、動くこともなく車庫にポツンと置かれているオートバイの姿が自分と重なって目が離せなかった。
その夜、気が付いたら美羽ちゃんに電話を掛けていた。
私はオートバイの事について何も知らなかったので、一体オートバイに乗るにはどうしたら良いか、何が必要なのかを美羽ちゃんに根掘り葉掘り尋ねた。
突然電話してきた私に、美羽ちゃんは始めはビックリしてたけど、丁寧に教えてくれた。
あのオートバイの名前。美羽ちゃんが高校生の時に乗っていて、思い出があるから手放せずにずっと実家に置いている事。
「ゆきちゃん、バイクに乗りたいの?」
そう聞かれても自分でも分からない。ただ、あのオートバイをもう一度走らせてあげたい。
「ゆきちゃんが乗ってくれるなら私も嬉しいけど......でも......」
美羽ちゃんの言いたいこと、心配してくれている事はすぐ分かった。
私は翌日、叔父さんと陽子叔母さんにオートバイに乗れせてもらえるように頼んだ。
やっぱり初めは少し反対された。陽子叔母さんだって実の兄を交通事故で亡くしているんだから、その娘まで事故にあったら、なんて思うのは当然だと思う。
結局最後は陽子叔母さんに、「言い出したら聞かないとこはお兄ちゃんそっくりね」と言われて許可を貰えた。
これであのオートバイ―――エイプもまた走り出せる。
お父さんとお母さんが居なくなってから、私は初めて自分の意思で何かを始める事ができた。
終業式の翌日のクリスマスイブに、私はさっそく運転試験場で原付の免許を取得し、
年末に美羽ちゃんが帰省した時に銀のカバーを外したエイプの姿を初めて見た。
大きすぎない車体と白いタンクはとても可愛い。
美羽ちゃんがお世話になっていたバイク屋さんに持って行って整備を頼んで、市役所での再登録や保険のことなんかも美羽ちゃんに教わりながら何とか出来た。
美羽ちゃんには適正な値段を支払いたいって頼んだけど、美羽ちゃんは、ゆきちゃんが乗ってくれるだけで嬉しいからお金はいらない。って頑として譲ってくれず、結局ケーキをご馳走しただけでエイプは私の物になった。
そして年末のある日。近所の市営球場の駐車場までエイプを押していき、美羽ちゃんに操作を教わりながら初めてエンジンを掛け、おっかなびっくりアクセルを開けた。
トコトコと、それでも力強く、何年か振りに動き出したエイプに、美羽ちゃんは手を叩いて喜んでいた。
私の初めてのオートバイ。
右手のアクセルを開ければ、エイプは私を好きな所にどこまでも連れて行ってくれる。
私はあの日の感動をずっと忘れない。
そして、年末にあったもう一つの大きな変化。
私が旅に出た直接的な理由の一つでもある出来事が起きたのは、あと一日で終業式を迎える十二月のある放課後の事だった。
HRが終わり、早く家に帰って今日も原付免許の勉強をしようと席を立った私に、教室に入って来た一人の男子生徒が声を掛けて来た。
隣のクラスの、確か山内くん。
バスケ部だかサッカー部だかの部長で、顔も良く多くの女の子から人気があり、ファンクラブなんてものも存在してるって聞いたことがあるけど、私は一度も話した事は無かった。
「白坂さん......」
殆ど面識のない人から突然声を掛けられ、その人の顔が少し緊張している。
中学の頃から今日まで同じような経験を何回もしてきた私は、彼の顔を見た瞬間、これから彼が何をしようとするのか分かってしまった。
自惚れているようだけど、たぶんどこかに呼び出されて、告白をされるに違いない。
だけど私の予想は外れた。それも悪い意味で。
まだ教室には殆どのクラスメイトが残ってて、固唾をのんで私たちの様子を注視している、そんな中で彼は口を開いた。
「白坂さん......俺、君の事が好きなんだ。付き合って欲しい」
その瞬間、周りのクラスメイトや、教室の外で様子を見ていた彼の友達らしき人達から、どよめきや歓声があがった。
彼はかなりモテると聞いたことがあるから、もしかしたら自分が断られるなんて考えていなくてこんな状況を選んだのかも知れない。
けど、私は今日初めて話した人の告白なんて受け入れる気はなかった。
彼をどこか連れだして断る事も考えたけど、結局この場面をクラスメイトの殆どの人に見られている訳だから、遅かれ早かれ彼の告白を断った事は周りに伝わるだろう。
「......あの、ごめんなさい」
私は俯いたままその一言をやっと絞り出すと、逃げるように教室を後にした。
翌日、恐る恐る登校した私は、クラスや廊下などで回りから好奇の目で見られる事はあっても、特に何も起こらなかった事で少し安心した。けど、私の知らない所で事態は悪い方向に進んでいた。
冬休みが明けて登校して私はそれにすぐに気が付いた。
強い視線を感じて振り向いたりすると、数人の女子生徒が私の方を睨みながらこそこそ話していたりする。
そして日が経つにつれてわざと私に聞こえるように話始めた。
「......何様だよ」「......気取っちゃって......だよね」「ちょっと顔が良いからって......」
そして更に日が経つうちに彼女達の声は私の事情を詮索し始めた。
「突然編入してきたのって変じゃない?」「前の学校に居られない事でもやったんじゃん?」
彼女たちは凄く巧妙だった。
あからさまな暴力や悪口を直接私に行ってくることはないし、私を見て常に陰口を叩くわけでもない。
用事があって私が彼女達に話しかけても、男子が居る時は愛想良く対応するけど、周りに人が居ない時なんかは、一言目は無視し、二、三回声を掛けると面倒くさそうに嫌々返事を返し、用事が終わり私が背を向けると、舌打ちや大きなため息を返してくる。
一度勇気を出して私が何かしたか聞いてみたけど、「は?何言ってんの?」と言って誤魔化されてしまい、私はそれ以上問いただすことが出来なかった。
そのうち飽きるだろう。と諦めて毎日過ごしていたけど、その陰口は小さくなるどころか、徐々に悪い方へと変わって行った。
毎晩夜遊びしている。
男をとっかえひっかえしている。
前の学校で妊娠したから引っ越して来た。
誰にでも股を開く。
パパ活をしている。
こっちに引っ越してきた理由を私は学校の誰にも言っていなかったから、私の責任も少しはあると思うけど、陰口は”だろう”という憶測がいつの間にか”だった”と言うような断定へと変わっていき、それまで傍観していた他の女子たちも私と距離を取るようになっていった。
その頃には私と比較的仲良くしていてくれていた数人のクラスメイトも離れていき、時々お昼を一緒に食べる子が一人いるだけだった。
そんな二月初旬のある日、彼女と二人でお昼を食べていた時のことだ。
彼女が急に他の子に呼ばれて慌てて席を立った時に、見ていたスマホをそのまま席に放置して出て行った。
見る気はなかったけど、つい目に入って来た画面にはメッセージアプリが開かれていて、何人かのクラスメイトの私に対する悪口が続いた後に彼女の返信があり、こう送られていた。
「呑気に目の前でお昼食べてる(笑)」
私はそれを見てもう何も感じなかった。ああ、彼女もそうか。ただ漠然とそう思っただけ。
そしてダメ押しとなったことがそれから一週間程後に起きた。
HRが終わり、帰宅しようと足早に教室から出た瞬間に例の山内くんにバッタリと会ってしまった。もしかしたら私が出てくるのを待っていたのかも知れない。
彼はスッと私の前に立ちふさがり、衆人環視の中でこう言った。
「なんか、色々噂が出てるみたいだけど大丈夫?相談に乗ろうか?」
多分彼は悪い人ではないのだろう。自分の行動が周りにどういう影響を与えるかなんて考えずに、ただ良かれと思っての行動だと思う。
だけど私はその問いに答えることが出来ずに、慌てて頭を下げて逃げ出した。
翌日から私への陰口は加速していった。
「あいつ、五千円らしーよ」
「五千円って高くね?せいぜい三千円じゃね?」
こうして私は一部の女子から「三千円」と呼ばれるようになった。
三月のある日、担任の先生が来年度から別の学校に転勤することが決定し、クラスでお金を出し合って花束を渡そうと計画が持ち上がり、一人幾らにするかを決めていた。その時、私の悪口を言うグループの中心にいる女子が「三千円でいいんじゃね!」と声を上げ、それに同調する笑いが十人程の女子から上がり、残りの女子と男子の半分は関わりたくない様に無視を決め込み、事情を知らない残りの男子半分がポカンとする状態になった。
「三千円でも高いか!二千円?千五百円にする?」
そう言い合って笑っている彼女達を見ても私は何も言えなかったし、もう何も思わなかった。友達もいない、気の弱い、何を言われても言い返せない私が悪いのだろう。
叔母さんたちに迷惑が掛からないようただ無心に学校へ向かい、心を閉ざして一日が過ぎるのを待つ。唯一の救いは週末に乗るエイプ。
そしていつの間にか、考える事はお父さんとお母さんの事だけとなって行った。
私をずっと一人きりにして、なんでお父さんもお母さんも帰って来ないのだろう。
私が泣けないからなのかな。親が死んでも泣くことも出来ない私にお父さんもお母さんも呆れているのかな。
それでも涙が出てこない自分に呆れ、軽蔑した。
そうして気が付いたらいつの間にか春休みに入っていた。
気にしていないと思ってても、どこか張り詰めていたのかも知れない。
学校や直接聞こえて来る悪口から解放され、私は心にぽっかり穴が空いたように何も考えられなくなった。
そんな三月末のある日、市内のお気に入りの公園にエイプで向かい、ひとり芝生に座って何も考えずに咲き始めた桜を眺めていた。どれくらい眺めていただろうか、突然私の頭の中で凄くいいアイデアが閃いた。
お父さんとお母さんが帰って来ないんだったら、私が行けば良いじゃない。
私が行って泣けなかった事を謝ろう。
そうすれば少し怒られるかも知れないけど、最後は抱きしめて笑って許してくれるに違いない。
幸い私にはどこにでも連れて行ってくれるエイプがある。
私はさっそく帰宅すると、陽子叔母さんに明日から数日の予定で、エイプで旅行に出たい事を伝えた。
初めは、一人でバイク旅行だなんて。と、心配していた陽子叔母さんだったけど、私もこの素晴らしい計画を諦めるわけには、心の中で陽子叔母さんをだます事を謝りつつも折れるわけにはいかなかった。
結局毎日必ず連絡することを条件に最後は渋々許してくれた。
バックパックに詰めた数日分の着替えと財布。私の準備はそれで終わり。
後は叔父さんや叔母さんには更に迷惑を掛けてしまうだろうから、お詫びとして机の引き出しにお父さんとお母さんが残してくれた保険金や、バス会社からの賠償金で見たことが無い金額が記載された通帳に、暗証番号を書いたメモを挟んで置いておいた。
エイプの為にほんの少し使ってしまったけどそこはごめんなさい。
翌日の早朝。
やっと空が白み始めた時間に私はそっと部屋を抜け出すと、「ごめんなさい。ありがとうございました」と、半年間お世話になった家に向かって頭を下げてからエイプに乗り込んだ。
目的地は......どこでも良かったけど、陽子叔母さんに咄嗟に伝えた伊豆でいいか。
今日も一日すっきり晴れるだろうと思わせる白み始めた空の下、何もかもから解放されて晴れ晴れとした私の心を写したようにエイプは軽やかに走り続ける。
数日以内にはお父さんとお母さんに会える。
私とエイプは半年過ごしたあまりいい思い出の無い、もう戻ることもない町にお別れを告げて、南に、海に向かって走り出した。
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