第11話 僕が旅に出た理由

 北条隼は自分でも大人しい子供だったと思う。

 あまり身体が丈夫な方ではなかった事もあり、友達と外で遊ぶよりは家で本を読んでいるのが好きな普通の子供だった。

 父さんと母さん、僕と二つ下の妹の四人家族で、子供の僕の目からはそれなりに仲の良い家族だと思っていた。


 そんなある日、具体的には僕が小学生三年の九月のある日曜日の朝、寝ていた僕と妹は父さんに起こされ、「お母さんはお星さまになったんだよ」と宣告をうけた。


 その日から十七歳になる今日まで、母さんの位牌も見たことが無いし、お墓が何処にあるのかも分からないけど、父さんは未だにお星さまになった宣言を取り消していないので、建前としては僕と妹の間では今も母さんは死んだことになっている。


 真相はどうであれ、あの日から母さんが僕らの前から姿を消したのは事実で、当時の僕も妹も父さんの話を当然信じた。

 当時小学一年生だった妹はその日以来、母さんを思い出しては泣き、それに釣られて僕も泣き出すという悪循環に陥っていた。

 妹は学校でも僕の授業が終わるのを待っていて、僕は毎日妹と登下校し、帰ったら父さんがやり残した洗濯や食器洗いなど家事をこなし、父さんが作った不味い夕食を食べて寝るという生活を送っていたので、ただでさえ少なかった友達も誰もいなくなってしまうのも当然だろう。


 そんな生活を続けていたある日、父さんが僕に少年野球をやらないかと言ってきた。

 僕の生活を見かねたのかどうかは不明だけど、父さんの学生時代からの友人が少年野球チームのコーチをやっていたので、そこに入らないかとの事だった。

 僕はそれまで野球をしたことが無いし、特に興味もなかったけど、父さんに無理やり連れていかれて、いつの間にかそのチームに入団していた。


 初めは無理やりやらされた野球だったけど、僕に合っていたのか、やっているうちに野球が楽しくなってきた。特に上手いわけじゃなかったけど、小学校六年まで少年野球を続け、中学も野球部に所属した。


 勉強も運動も普通、引っ込み思案で大人しい、野球以外は読書が趣味という、どこにでもいる普通の少年。それが僕だった。


 そんな僕も、中学卒業後に自宅から電車で十五分の所にある普通の高校に無事入学し、ここでも野球部に入部した。今から二年前のことだ。

 野球部は夏の県大会で二回戦突破を目標に掲げるような弱小だったけど、僕にはそのレベルの野球で丁度良かったと思う。

 父さんの強すぎる勧めでバイクの免許を取ってからは、野球とバイクがすべての平凡な高校生。


 そんな僕にも高校二年の五月、彼女が出来た。今から約十か月程前の事だ。


 彼女は野球部のマネージャーで、一年生の時は僕と同じクラスで、しかもクラスで野球部は僕と彼女だけだったので自然と接点も多かった。落ち着いていて優しい彼女に僕が惹かれていったのは自然の成り行きとも言え、僕から彼女に告白して付き合う事になった。


 野球でも去年の夏の大会後に三年生が引退したことで、ショートのレギュラーになれた。まあ、自動で繰り上がっただけともいうが、それでも嬉しかったし、多分あの時が僕のこれまでの人生で一番幸せな時期だったと思う。


 ただ、そんな幸せな時期も長くは続かなかった。


 レギュラーになってすぐの練習試合でランナーと交錯して転倒した僕は右肩に怪我を負った。

 日常生活に支障はなかったけど、全力でボールを投げる事が出来なくなった僕は、後輩にレギュラーを譲ることになった。

 大して上手くなかったけど、弱小野球部だけど、それでも何の取柄もない僕が、小学生から唯一続けて来た野球が出来なくなった。


 野球が出来なくなったことに僕は酷く落ち込んだ。

 野球部にも仲の良い友達も出来て少しは社交的になってきていたのに、そこからまた昔の僕に戻り始めてしまう。

 常に下を向き、野球部に顔を出すことも徐々に減っていき、皆と距離を取り、学校と家を往復するだけの生活を繰り返しているうちに、初めは励ましてくれていた野球部の仲間も徐々に離れていった。


 そんな僕に対しても彼女はいつも優しく、時には明るく、時には少し厳しく接してくれていたけど、それでもいつしか彼女の笑顔を見る事が減っていき、それにつれて僕らが会う事も減って行った。


 だから、そんな僕が彼女から別れを告げられたのは当然だったと思う。

 十二月の中旬、今から三か月半前の休日、家でゴロゴロしていた僕のスマホに、久しぶりに彼女からのメッセージが届いた。


 ”今日、これから少し会えないかな”


 そのメッセージを見た瞬間、鈍い僕でもこのメッセージが何を意味するのか分かってしまった。


 彼女のせいじゃない。悪いのは全部自分だって分かっている。

 だから、年末の駅前で久しぶりに見た彼女が男と手をつないで歩いているのを見たとき、そしてその男が僕の代わりにショートのレギュラーになった野球部の後輩だった事にも乾いた笑いしか出てこなかった。


 休み明けの登校初日に僕は野球部顧問の先生に退部届を出した。


 そんな僕を取り巻く環境に変化があったのは、正月が明けて学校が始まってすぐの事だった。

 クラスの女子の一人が、時々僕に声を掛けてくるようになった。

 いわゆるスクールカーストトップのグループの中心にいる女子で、明るい茶髪と派手な化粧をしていて常に大声で喋る、クラスで何か決め事がある時はクラス全員がそのグループのメンバーの様子を伺うという、そう言う女子だ。


 彼女、高浜さんとは同じクラスになって十か月近く経つけど、これまで会話らしい会話をした記憶が無いどころか、挨拶さえした記憶もない。

 高浜さんからしたら僕の存在さえ知らないのでは?と言うほど接点なんか無かったのに、それが新学期が始まってから急に僕を見つけては挨拶をしてくるようになった。


 そんな高浜さんの変化に嫌な予感しかしなかったけど、その僕の予感は最悪な形で当たってしまった。

 高浜さんが僕に話し掛けて来るようになって三週間後の放課後、僕は彼女に呼び出されて告白をされた。

 これはもしかしたら噓告って奴かも知れないとも思ったけども、どっちにしろ僕の答えは変わらない。


 それからだった。クラスからの僕を見る空気が変わって行ったのは。

 今までも大人しくて空気のような存在だったけど、その日を境に僕を見るクラスの目は、只の空気から有毒な空気を見る目に変わって行った。


 原因は多分高浜さんの告白を断った事だろう。

 クラスに僅かながら居た、休み時間だけ話をするような、友達とも言えないクラスメートも僕に話し掛けてくることは無くなった。


 そんな空気は分かっても、僕にはどうする事も出来なかった。

 直接誰かに何かを言われた訳でもない。ただ重苦しい空気を感じながら教室に入る。


 そんな事が続いていた二月中旬のある日、授業が終わり、部活を辞めてから空いた時間で始めたバイトに行こうと、学校の廊下を歩いている時だった。

 野球部の奴が教室から出てきた所にバッタリと鉢合わせた。

 彼は僕を呼び止め、SNSでお前の悪い噂が流れていると言って、その噂のいくつかを僕に伝えてた後、僕の肩を軽く叩いて去って行った。


 彼が僕に伝えて来た悪い噂は僕には全く身に覚えが無かった。

 彼曰く、


 僕が高浜さんに告白して振られた。

 女をとっかえひっかえしては何人も妊娠、中絶させている。

 暴走族に入っていて、恐喝や窃盗を繰り返している。


 直接言われたなら僕にだって否定や反論が出来たかも知れない。

 僕の知らない所で流れる噂話。いきなり教室で大声を上げて否定すればいいのか。

 高浜さんを問い詰めても否定されるだけだろうし、クラス中が彼女の味方をすることは目に見えている。彼女が噂の出所だという証拠だってない。

 友達もいない僕にはどうしていいか分からず、ただクラスの毒物として時間が過ぎるのを待つ事しか出来なかった。


 学校に行きクラスの毒物として過ごし、バイトに出て、家に帰って寝る。

 ただ無気力に何も考えずにそんな生活を春休みまで繰り返す。

 唯一落ち着けるのはRZに乗っている時だけ。いや、RZがあったからこそ、父さんや妹がいたからそんな環境でも毎日なんとかやり過ごせていたんだと思う。


 春休みになったからと言って僕を取り巻く環境がいきなり変わることは無い。

 僕の噂はクラス中どころか学年中に知られているだろうから、新学期になってクラス替えをしても、またあの生活が待っているだろう。

 一つだけ安心な事は妹が進学する高校が僕と同じ高校じゃない事だ。


 野球の事も元彼女の事も友達が去って行ったのも全部僕が原因だって分かっている。

 元彼女も野球部の仲間も僕の態度や言動で傷つけてしまっただろう。

 世の中には僕なんかよりもっとつらい思いをしている人もいるだろう。人から見れば取るに足らない悩みかも知れない。大人から見れば将来の笑い話だと思うかもしれない。


 だけど、それでも僕には......


 だから僕は旅に出た。

 ただの現実逃避で憂さ晴らしだ。

 この旅が終わったらまた現実が待っている。

 だけど......逃げ出すことも出来ない。



 生ぬるい風がテントに吹き込んでくる。

 この半年の間に僕の周りで起きた出来事を、自分に聞かせるように話し終わったその時、僕の手は少し強く、それでいて包み込むように優しく握られた。

 僕の手を握っている彼女の、小さく細く柔らかい指は微かに震えている。


「辛かったね......」

「辛かった......のかな。でも僕の悩みなんて。他にもっと大変な思いをしている人も沢山いるだろうし......」

「そんなこと......ないよ。隼くんの痛みは他人が図る物じゃないもの」


 白坂さんが起きていたとか、彼女に聞かれた、とかそんな事はどうでも良かった。


 ただ彼女が握ってくれた手の温もりを感じたとき、僕の旅はやっと目的地にたどり着いた気がして、僕は彼女の手をそっと握り返していた。


 ♢♢♢


「僕は......明日帰ろうかなって思ってる」


 隼くんがそう言った時、私はとうとうその時が来てしまったと、内心震えていた。

 ずっと一緒には居られない。そんなことは小室山で彼に声を掛けたときに分かっていた事だ。

 隼くんに出会った事で、今の私には行く場所なんか無くなっていた。

 一人で先に進むことも、彼と一緒に戻ることも出来ない私は、迷子になって泣くことも出来ずにどうしたら良いのか分からず立ち尽くしていた。


 動揺を悟られない様に慌ててテントに潜り込んで、寝袋に包まって目を閉じると、少しして隼くんもテントに入って来て横になった。けど、今は彼に何も聞かれたくなかった。

 私がこの旅に出た理由なんて、目的なんて絶対言えなかった。

 手を少しだけ伸ばせば触れる所にいるのに、今の私には彼が遠かった。


(お父さん、お母さん......)


 ただギュッと目を瞑って時間だけが過ぎるのを待っていたその時、隼くんが口を開いた。


「......僕は......逃げて来たんだ」


 彼は私に聞かせるというより、自分に言い聞かせるようにぽつぽつと話を始めた。

 お母さんのこと、野球のこと、彼女さんのこと、友達のこと、そして悪い噂のこと。


 彼の身に起きた事はビックリするくらい私の身に起きた事と同じだ。


 だから彼の話が終わった時、私は彼の手を無意識の内に握り締めていた。

 そして、行き場をなくして迷子になってしまった自分を助けてあげたくて、絶対言わない様にしていたその理由を話し始めていた。


 私、白坂雪菜がこの旅に出た理由を。

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