第8話 月あかり
僕は今、十七年の人生の中で経験がない程に緊張している。
全身が心臓になったみたいに、頭の中で心臓がどくどくと音を鳴らしていて、息をするたびに呼吸が震えているのが分かってしまう。
テントの中は白坂さんの良い匂いで満たされていて、そんなことを考えて呼吸している事がバレたらどうしようなんて思うと、更に緊張するという悪循環に陥っていた。
結局、僕が前室で寝ることを白坂さんは頑として許してくれず、かといって彼女を前室で寝かせる事なんて出来るはずもないので、十分ほど揉めに揉めてこういう事になってしまった。
僕の耳の真横から白坂さんのスースーと言う寝息が直接頭の中に響いて来る。
時折「んっ......」と言う声が聞こえて来ようものなら、緊張のあまりビクッと体が強張る。
寝袋から手を出すだけで触れる距離に美少女が寝ていると思うと、僕の緊張はピークに達し、そのまま僕は意識を手放した。
たぶん気絶に近かったと思う。
♢♢♢
「......ぅ」
なにか気配を感じた気がして僕は不意に目を覚ました。
此処はどこだっけ?と半分眠っている頭でぼんやり考えていると、気絶、じゃなく寝る前の記憶が朧気ながら浮かんできた。
そうだ......ツーリングに来て、キャンプ場で、テントで寝ようとして......白坂さんがいて......
そこまで考えてからゆっくり目を開くと、青い月明りに照らされたテントの天井が目に入って来た。
今は何時だろう。どれくらい寝たんだろう。
もう一度目を閉じ、寝返りを打とうとして体を少し動かしてから、「あぁ、こっち側には白坂さんが寝てたっけ」と思っただけで、何も考えずにそのまま寝返りを打った。
そっか......白坂さんがいて......
そこまで考えてから違和感、隣に人の気配が無い事に気が付いた。
息を止めても彼女の呼吸音が聞こえてこない。ゆっくりと目を開けると、淡い月明りに照らされた寝袋に彼女の姿はなかった。
あぁ、トイレかな。
そんな事を考え、再び反対側に寝返りを打つと、テント入口のファスナーが半分程開いていて、遠くから聞こえる波の音と共に、月明りに照らされた外の景色が目に入った。
前室の外側、一人の女の人が背筋を伸ばし、芝生に座って海を見ていた。
彼女は微動だにせずただ海を見ていて、時おり通り過ぎる風が髪を揺らすだけだ。
青く光る半月に照らされたその横顔は、まるで神様が作った氷の彫刻の様に美しく、そして冷たかった。
色をなくした大きな瞳は瞬きもせず、ただ海を見つめている。
ああ......そうか。彼女は......泣いてるんだ。
僕はボーっとした頭でそう思い、そんな彼女をただ見つめていた。
彼女がどんな人で、どんな人生を歩んできて、どんな理由でここに居るのかなんて考えなかった。彼女に興味がなかった。
自分の事で精一杯で、自分の事も誰にも言う気もなかった。
なんで彼女は泣いているんだろう?
一切の色を無くした瞳から涙も流さず、声も出さず、ただ静かに海を見つめて、彼女はずっと泣いていた。
なんで彼女は一人で泣いているんだろう?
その疑問を誰かに投げかけようとして、その疑問に誰も答えられない事に気が付いた僕は、いつの間にかまた深い眠りに落ちて行った。
♢♢♢
目を閉じていても飛び込んでくる眩しい光が僕の意識を急速に覚醒させていく。
遠くから聞こえる波の音が、家じゃなくキャンプ場で目を覚ましたことを僕に伝えて来た。
まだ重たい瞼を開く気になれず、手探りで頭上のスマホを探し当てると、やっと目を開けて時間を確認する。
時刻は午前六時。
別に急ぐ旅じゃないし、目的地も決めていない。
そう思って再び目を閉じようと寝返りを打った瞬間、僅か十センチ程の目の前に僕の方を向いてスヤスヤと寝息を立てる美しい寝顔があった。
ヒッ!と漏れそうな声を押し殺し、白坂さんを起こさない様に、慎重にかつ素早く寝袋、そしてテントから離脱した僕は、寝起きから最高血圧を記録した体を鎮めるように深呼吸する。
少し落ち着き顔を上げると、正面から昇る朝日に照らされた白い海が、僕に向かってキラキラと光る道を作っていた。
おお!これも凄い景色だ。
昨日と同じように天気も良いし、昨日よりも寒さが和らいでいる気がする。
目を覚まして最初に目に入れた光景がこんなに素晴らしいとは、ツーリングに来て良かったと改めて思う。
いや、この前にもっと貴重なものを目にした気がするけど、あれは反則なんでノーカンだ。
白坂さんを起こさない様に、前室からイス、テーブル、バーナー、アルミのマグカップを取り出して、昨日買っておいた水でコーヒーを沸かす。
やっぱりライダーの、キャンプの朝はコーヒーだよな。
が、砂糖もミルクも持っていない事に気が付いた僕は、泣く泣くコーヒーを諦め、念のために持ってきておいたティーバッグで紅茶を淹れた。
いや、本当は紅茶の方が好きだからいいんだけど。
海を眺めながら静かなキャンプ場で紅茶を啜る、いや嗜むのもまた良い。
僕は、ただ一人海を見つめて......
一人海を見つめていた彼女は何を思ったのだろう。
昨夜の事が夢だったのかどうか良くわからない。
はっきり覚えているのは彼女の氷の様に冷たく美しい横顔。
そんな事を考えながら紅茶を啜っていると、背後のテントからゴソゴソと物音が聞こえ、白坂さんが入口からそっと顔を出したので声を掛ける。
「おはよう」
「あっ、おは―――ちょ、ちょっと待って」
白坂さんは頭を手で抑えたままフニャっと笑うと、あわててテントに引っ込んだ。
あぁ、女の人は大変だな。と思いつつ、また海を眺めていると、暫くテントの中でゴソゴソしていた白坂さんがまたテントから顔だけをひょこっと出した。
「おはよう、
太陽のような満面の笑みを浮かべ、小首をかしげている所はあざとかわいい。
けど、その目に映る微かな悪意を僕は見逃さなかった。
一呼吸おいて、意を決して彼女の悪意に対抗する。
「おっ、おはようっ......ゆっ、雪菜しゃん」
「え?......」
「あっ......」
「......ぷっ、フフッ......あははっっ!」
大丈夫だ。嚙んだわけじゃない。
”雪菜さん”か”雪菜ちゃん”かの二択で、どちらを選択するかギリギリまで悩んだ結果の折衷案が”雪菜しゃん”なんだ。
昨日会ったばかりの女性を下の名前で呼ぶという、高難易度のミッションでも僕に掛かれば......こんなもんだった。
「ちょっと!大事な所だったのに......あははっ!」
お腹を抱えて笑いながら、靴とイスを持ってテントを這いずり出すという器用な技を披露した白坂さんは、僕の隣にイスを並べて座った。
そしてまた僕の顔を覗き込んで、ニッコリ微笑みながら小首をかしげる。
「おはようっ、昨日は良く眠れた?隼くん?」
くっ、強い。でも負けない。僕は今、人生の賢者タイムだから。
さっきは相手のペースに惑わされて反撃の方向性を間違えただけだ。
「おはようございます。白坂さん。ご機嫌は如何ですか?」
「えー-っ。何それ!もう一回さっきのセリフでやり直してよ!」
ぷくーっと頬を膨らませて抗議する彼女は、それでも楽しそうに笑っている。
まあ、今日はこのぐらいで許しておいてやろう。
しばらく笑うと、彼女は僕の飲んでいた紅茶を指さした。
「それ紅茶?」
「あ、うん」
「いーなぁ、飲みたいなぁ~」
そういわれてもカップは一つしか持ってない。
「じゃあ、洗ってくるからちょっと待ってって」
慌てて立ち上がり、カップを掴もうとしたところで彼女から声が掛かった。
「えっ、いいよ。もったいないじゃん。そっ、それ頂戴っ」
「へっ?」
と、思った時には彼女は僕の飲みかけの紅茶に手を伸ばし、両手で抱えてふぅふぅと少し冷ます仕草をしてから口を付けた。
「あっ......」
「ななっ何?......う、海を見ながら飲む紅茶って美味しいね」
本当か?顔を真っ赤にして俯いてる白坂さんに海は見えてないだろうし、カップのふちに口を付けただけで殆ど飲んでいない紅茶の味が分かったのか?スーパーの特売で買ったティーバッグだぞ。
「なっ何よ?」
そんなに顔を真っ赤にするくらいならそんな事しなきゃ良いのに。
自爆して真っ赤な顔で膨れている白坂さんは昨日以上に明るく見える。
けど、僕の目には今の彼女と昨夜の彼女の横顔が重なって見えていた。
♢♢♢
白坂さんが紅茶を飲み終えた後、僕らは撤収作業に入った。
テントを裏返して乾かしている間に洗顔や朝の準備を済ませ、荷物やゴミを片付ける。
後はテントを仕舞って出発するだけ。
僕はさらに南へ、取りあえず最初の目標は下田だ。けど......
「白坂さん......あのさ、今日の予定は?」
フライシートを畳みながら僕は彼女に問いかけた。
「えっと......どう、しようかな......とりあえず伊東まで戻って―――」
テントのポールを纏めていた手を止め、俯いたまま彼女は呟いた。
「帰るんだ......もともとその予定だったの?」
「え?う、うん......ううん。ホントは特に......予定は無くて......」
「このすぐ近くの城ヶ崎海岸に吊り橋があるんだって。下田には水族館もあるらしいし、西伊豆には夕日を見ながら入れる露天風呂もあるってさ」
「えっと......それって」
ただのおせっかいで僕の自己満足かも知れない。
興味本位の野次馬根性かも知れない。
彼女にとってはた迷惑で、心の中では「キモいんだよ!このナンパ童貞野郎!」って思われて、断られるかも知れない。
結局何も知らずに終わるかも知れない。
『なんで彼女は一人で泣いているんだろう?』
でも、多分誰も教えてくれないだろうから。
だから僕は少しだけ。
「もし迷惑じゃなかったら......白坂さんも一緒に行かない?」
「......い、いいの?一緒に?......私も?」
「テントが嫌だったら白坂さんだけでも宿を取っても良いし、僕も予定も目的地も無いんだ」
「う、ううん!テントがいい!今日もテントで泊まりたいっ!」
白坂さんは美人だ。
顔のパーツやバランスが完璧で、大人びて見えて、一見冷たい彫刻のような印象を受けるだろう。
だけど、今、僕に笑顔を向けている彼女は、十七歳にしては少し幼く見える、普通の女の子だった。
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