第4話

「ユリエ、お前……?」


 ユリエがそれに気付いたのは、母親の怯えたようなその言葉でだった。床に倒れている父親を、今やユリエは完全に見下ろしていた。車イスに座ってではなく、。背筋を伸ばした、その高い視点から。


「お前……!」

 苦痛に歪んでいた父親の顔が、徐々に恐怖に変わっていった。自分の前に立ち尽くす娘の姿に、ありえないその姿に。今まで自分が圧倒的に彼女に与えていたはずの「畏怖」の感情が、大いなるリバウンドとなって、一気に自分に向かって襲い掛かって来ている様な気さえしていた。そして、ユリエは。



 自分が「立っている」ことに、最初は驚いたものの、今はなぜか、それがもう当たり前のように感じていた。私は立てるんだわ。だって、こうして立ってるんだもん。何も不思議なことはないのよ。そして、立てるんだから……。


 ユリエは、自分が立っている位置から、ゆっくりと、一歩ずつ、足を動かし始めた。今や額の傷は、頭だけでなく、体中を燃え上がらせんばかりに熱くなっていたが。その熱さゆえに、自分は立っていられるんだ、こうして歩けるんだと。ユリエはなぜそう思っていた。


「やめろ……来るな! こっちへ来るな!」


 自分の方にゆっくりと近づいてくるユリエの姿を見て、父親はもう完全に恐怖に包まれていた。ありえない事が、今目の前で起きている。しかしそれは間違いなく現実である。昨日まで、いや、ついさっきまで自分の言いなりになると思っていたものが、明らかに自分に牙をむき始めている。今まで自分がその相手にしてきた事の重みが、一斉に自分の上に圧し掛かり、自分を押し潰そうとしているかのようだった。



 そしてユリエは間違いなく、父親が抱いている恐怖を感じ取り、優越感すら滲ませた笑みを浮かべていた。 


 ……私は、こんなちっぽけなものに。こんなつまらない奴の言いなりに、今までなってたのね。もう、そんな毎日は終わりだわ。この男は、こんなに無力じゃない。だって、ほら……。


 ユリエは怯えきっている父親の頭を、ぐいっと右手で掴むと。まるで枯れた小枝をパキンと折るかのように、がくん! と真下に向けた。父親の首はポッキリと折れ、力なく胸の上に垂れ下がった。


 それっきり動かなくなった父親の姿を、何か不思議そうな表情で、しばし見つめた後。ユリエはくるっと後を振り返った。そこには、父親と同じく、恐怖に襲われ固まっている母親がいた。


「ユリエ……いや、いやよ。私は何も、何もしてないじゃない!!」


 母親はまるで床に張り付いてしまったかのように動かない両足を、なんとかひっぺがして玄関へと逃げ出そうとした。ユリエは尚もゆっくりとした足取りで、母親の後を追い、そして落ち着いた口調で言い放った。


「何もしてない、じゃなくて……何もしてくれなかった、でしょう?」

 ユリエはそこから、玄関口の電話機に駆け寄った母親に向かって、自分でも驚くぐらいの速さですっと近づいた。歩けるどころか、背中に羽が生えたかのようだった。


「もしもし、もしもし! あの、ユリエが、あの……!」

「どこに電話、してるの……?」


 ユリエが、受話器に向かって必死に叫ぶ母親の、その首を掴むと。母親は、「ぐぇっ」とカエルが踏み潰されたような、情けない声を一息吐き。ユリエが力を込めた手の中で、声帯と気管と首の骨を同時に握り潰され。ぐるりと白目を剥いて、受話器を片手に握り締めたまま、バッタリとその場に倒れこんだ。誰もいなくなった家の中で、ユリエはただ一人、玄関口で立ち尽くしていた。ただ、額の傷から全身を伝わる燃えるような熱さが、ユリエを支配していた。

   

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