第3話
そして、朝が来た。昨夜、果てた後もしつこくユリエを愛撫し続けた父親は、もうベッドにいなかった。こうして、夜の間の事はまるで「なかったこと」のように、朝が始まるのだった。
「ユリエ、朝ご飯出来てるわよ……」
インターホンからの母親の声に、ユリエはけだるい体をゆっくりと起こした。そう、いつものことなのだ。私は何事もなかったかのように、下へ降り、食事をして学校へ行く。父親も、気付いているはずの母親も、夜の事には何も触れぬまま……。
しかし。ユリエが食卓につくと、何かいつもと雰囲気が少し違っていた。母親は相変わらずといった風だったが、父親は……意外にも、ユリエに優しかったのだ。
「怪我は大丈夫か? 痛むようだったら、今日は学校を休んでもいいんだぞ?」
それは、本当に何年か振りで聞いた、「夜の時間」以外での、父親の優しげな言葉だった。ユリエが昨夜思ったように、怪我をさせたあげくに、夜まで……という負い目が、父親にもあったのだろうか。だが、明らかに言い慣れていないその言葉は、同じく聞き慣れていないユリエにとって、優しく響くどころか、不快感いっぱいになるものでしかなかった。
「いえ、大丈夫です。学校へは行きます」
ユリエは、自分でもちょっと驚くくらいの強い調子で、はっきりとそう父親に告げた。父親の顔は見ずに、まっすぐに前を向いたまま。これには父親も、さすがに少し驚いたようだった。いつもなら途端に拳が飛んでくるところだったが、今日はやや控えめな口調で、父親はユリエに言った。
「いや、ほら、額に傷バンをつけたままだと、何かと目立つだろう? そんな時に、無理しないでもいいんだぞ……?」
その言葉に、ユリエは自分が感じていた不快感の理由がはっきりとわかった。父親は、自分の体を心配しているのではなく。私の額についた傷を皆が見て、何事かと怪しまれるのを心配していたのだ。いつもなら腹や背中など、傷がつくのは体の目立たないところだったのだが、額の傷は車イスにぶつかって出来たものだということで、父親にもいくらか不可抗力だったのかもしれない。
それで心配になって、こうしてきごちない言葉をかけてきたりする。ユリエは、それが許せなかった。無性に腹が立った。何か、今までに体感した事のないような怒りが、胸の奥底から湧き上がってくるのを、ユリエはかすかに自覚していた。同時に、痛みの治まっていた額の傷が、じんじんとうずきだすのを感じていた。
「いえ、学校へは行きます!」
ユリエはそう言って、手に持っていた箸を、ばん! とテーブルに叩きつけた。いつも我関せずを決め込んでいる母親も、ぎょっとしてユリエを見つめた。そして、父親の驚きようはそれ以上だった。
「それでは……上で、仕度をしてきます」
まだ食事は終わっていなかったが、ユリエは車イスの向きをくるっと変え、2階へのスロープへ向かっていった。このユリエの一連の様子を、あっけにとられて見ていた父親だったが、ユリエが自分の脇を通り過ぎようとした時、我に帰ったように、ユリエの腕をむんずと掴んだ。
「きさま……人が優しく言ってやりゃあ、いい気になりやがって!」
ユリエを睨みつける父親の目は、怒りにギラギラと燃えていた。いつもならそれだけで萎縮してしまうユリエだったが、なぜか今日は違った。自分を敵視する、そして何もかもが自分の言いなりになると思っているその目に。ユリエの怒りは更に増幅された。
「離してよ!」
ユリエは、自分の腕を掴んでいた父親の手を振り解こうと、思いっきり右腕を振り回した。その時、思いもしない事が起こった。
ばーーーーん!!
……ユリエが振り回した腕の勢いで、父親がひっくり返り、床にその体をモロに叩きつけたのだ。父親は、何が起きたのかわからない様子で、床に転がった自分の体と、自分を車イスの上から見下ろしているユリエとを、交互に見比べていた。母親も、口をぽかんと開けたまま、父親をなぎ倒したユリエをただ見つめていた。
「て、てめえ……やりやがったな?!」
油断した、と思ったのだろうか。父親は昨日ユリエがしたように、車いすの手すりをつかみ、こんなんじゃびくともしないぜと強がるかの如く、勢いをつけて起き上がろうとした。
ユリエはその父親の起き上がった体を、両手で力任せに、ばしーーん! と突き飛ばした。父親の体は、まるで映画のワイヤーワークのように宙に浮き、突き飛ばされた勢いで後ろ向きに吹っ飛んだ。
どしーーん!!
父親はそのまま、部屋の反対側の壁に激しく体を打ちつけ、崩れるように床に倒れこんだ。背中を痛めたのか、父親は倒れたまま苦悩の表情を浮かべ、苦しそうにもがいていた。ユリエは、そんな父親をじっと見下ろしていた。いつもは車イスからおそるおそる、機嫌を伺うように見上げる事ばかりが多かった、父親の顔を。
そして、自分をこれまで毎日のように虐待し、陵辱してきた父親が、今は力なく床に転がっている事に、ユリエはこの上ない快感を覚えていた。大声で笑い出したいくらいだった。額の傷が、今はもう頭を破裂させんばかりにズキズキいっていたが、それはもう苦痛ではなかった。むしろ、血が完全に登りきったように熱くなっている頭の中が、ユリエには気持ちよくさえ感じた。その心地良さゆえに、ユリエは、自分の視点がいつもと変わっていることに気がつかなかった。
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