第3話

 一時期、回復に向かっているように思えた母親の病状が、急激にまた悪化し。自宅療養ではままならず、入院する事になり。それでも回復には至らず、担当の医師からは、もう母親が長くない事を知らされた。その衝撃は、私には計り知れないほど大きかった。また壊してしまった。大事にしようとしていたものを、かけがえのないものを。また私は壊してしまったんだ……! 


 もうこれ以上、母親には近づかない方がいいのかもしれない。このまま私が母の元を立ち去れば、母の病状が回復するかもしれない。そんな事すら考えた。だが、すでにそんな事で回復する望みもないほど、母親の状態は悪化していた。



 今は見る影もないほどやつれてしまった母親が寝ているベッドの傍らで、私はどう母親に詫びようかと思いながら、イスに座り一人うなだれていた。すると。弱々しい声ながらも、はっきりと母親が私を呼ぶ声が聞こえた。私は顔をあげ、やせ衰えた母親の顔を見つめた。母もまた私の顔を見つめ、静かに囁いた。


「お前には随分と世話をかけたね……感謝しているよ」


 その言葉に、私は涙をこらえられなかった。母親はすでに覚悟を決めていたのだ。その病状を知らされなくとも。もはや自分は、回復の望みがない事を。私は涙を流しながら、ただひたすらに詫びるしかなかった。


「ごめん……母さん、ごめん! 俺のせいなんだ。俺が、俺みたいなやつが母さんのそばにいたから。だからこんな事になったんだ。俺に、自分が大切に思っているものを、守る事なんか出来ないんだ……!」


 母親の手を握り、叫ぶように言葉を吐いた私の顔を見て。母親は、にっこりと笑った。それは、余命いくばくもないと宣告された病人の笑顔とはとても思えない、優しい慈愛に満ちた笑顔だった。それとも、自分の死期を悟ったからこその笑顔なのだろうか。いずれにせよ、私はその笑顔に例えようもないほどの感動を覚えていた。そこに私は、無意識のうちに神のような面影を見ていたのかもしれない。私は自然と、母親にこれまでの人生の懺悔を始めていた。


「母さん、俺は……これまでずっと、大事にしようとしていたもの、大切にしたかったものを壊し続けてきた。壊したくなんかなかったのに。それでよく、母さんにも叱られたよね。でも、壊してしまう事は避けられなかった。一人暮らしを始めてからも、それは変わらなかった。俺はそういう人間なんだ。自分の周りにあるものを壊し、そばにいる人を必ず不幸にしてしまう。だから、母さんの看病なんかしちゃいけなかったんだよ。母さん、ごめん。全部俺が悪いんだ……」


 俺のその言葉を聞いても、母親の笑顔は崩れる事はなかった。いや、むしろそれまで以上に神々しいばかりの笑顔になったような気さえした。そして母親は、一言一言、私を諭すように話し始めた。


「大事にしようと思っていたものを、壊してしまう……それはね。きっと、お前がそういう運命を授かっているんだよ。壊してしまう運命じゃなくて、壊れてしまうものを、”見届ける”という運命を。


 ものだって人だって、いつかは壊れてなくなるんだよ。でも、ものも人も、その最期を誰にも見取られる事なく、その一生を終えてしまうこともある。最期を見届けてくれる人がいるっていうことが、どれだけ幸せな事か。それは、今の私が一番よくわかるよ。しかもそれが、自分の事を大切に思ってくれていた人だったら、これ以上の幸せはないんだ。


 どういう巡り合わせかはわからないけど、お前はそういう運命の元にいるんだと思うよ。その痛みを受け止める事は、受け止め続けることは容易ではないと思うけど。でも、それはある意味とても意義のあることなのかもしれないね。お前は、そういう役目に選ばれたんだよ……」



 そういう運命に、選ばれた。それは、私がこれまで考えもしなかったことだった。もちろん、自分を看病してくれた息子に対しての、労いと慰めを込めた言葉であったかもしれない。それでも、その言葉は私の心に深く突き刺さった。


 それは私の胸の内に今もなお引っかかっているのが、唯一「その最期」を見届けられなかった、大学時代の彼女の事だったせいもあるだろう。だからこそ、彼女の事がこんなにも心残りであるのだと。そう考えると納得出来たのだ。私が、人やものの、その最期を見届ける役目の者だという事が。私は何か、少しだけ晴れやかな気分になっている自分に気がついた。


 確かにそれは、つらく厳しい役目かもしれない。だが、自分の最期を見届けてくれる人がいるという事が、幸せな事であると。その一言が私の心の負担を軽くしてくれていた。もし私がそういう役目である運命を授かっているのならば、それに従おうと。従うべきなんじゃないかと、そう思えたのだ。


 私は生まれて初めて、自分がこの世界に生まれてきた意義を感じる事が出来た。それが真実かどうなのかはわからないが、そう考える事は決して罪ではないのではないか。そしてそれは、私がこれからの人生を生きていく上での指針を、勇気をも与えてくれた。


 こうして私は、自分でも驚くくらい穏やかな気持ちで、母親の死を見届ける事が出来た。その事に、自分自身も不思議な満足感を覚えていた。そして……。




 母の死から数年後。私は、新しい職場で働いていた。それまで経験のなかった仕事だったので、最初はアルバイトから始めたのだが、やがてその熱意を認めてもらい、今では職場の中心的プロジェクトにも携われるようになった。自分から進んでそういった立場になろうと思ったのは初めての事だったし、それを認めてもらえたことも大きな喜びだった。


 今の私の職場は、地球の環境汚染に関する問題に取り組む研究所である。オゾン層の破壊による温暖化、とどまる事をしらぬかのように拡大していく砂漠……そういった諸問題の解決策を見出そうとするプロジェクト。今はまだほんのアシスタントのような立場に過ぎないが、いずれはもっとプロジェクトの中心的な立場となって働いてみたい。この、地球という星を、


 私はまた、自分の大切なものの、最期を見届けることになるのだろうか。それとも……?


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

壊れもの さら・むいみ @ga-ttsun

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る