第3話

 割れたガラスは部屋の中に飛び散り、そして訪問者の額は、打ち付けたガラスで切ったのであろう、幾筋もの傷口がパックリと口を開け、そこからダラダラと血を流していた。それでも訪問者は、血に染まった額で、ガラスに頭突きを繰り返していた。


「私を、殺して下さい! 殺してくれ! 早く! 早く!」


 そう叫びながら窓ガラスに頭突きをし続けるそいつの姿に、純一は完全に固まっていた。狂ってる。こいつは狂ってる……! 純一は震える手で、机に置いてあった携帯電話を取り上げ、警察に電話しようとした。こいつは危ない。これ以上放っておいたら、何をされるかわからない! しかし、純一が怯えながら、1、1、0と番号を押すよりも速く。訪問者は、頭突きで割った窓ガラスに向かって、今度は体当たりをしてきた。


 ぐわっしゃーーーん!


 キラキラと輝く、無数のガラスの破片と共に、そいつは部屋の中に転がり込んで来た。そして、むっくりと体を起こすと。その、血まみれになった顔を、携帯を握り締めたまま固まっている純一に向け、ニヤリと笑った。


「さあ、早く私を! 殺して下さい!」


 

「うわあああああああ!」

 純一は自分でもビックリするような叫び声を上げ、そこから逃げ出した。さっきまで頑なに閉じていた部屋のドアを開け、外へと飛び出した。勘弁してくれ、もういい加減にしてくれ! 靴も履かないまま、純一はアパートの部屋を一目散に後にした。


「どこへ行くんですか!」

 純一の後から、あの「声」が追いかけてきた。純一は振り返らなかった。振り返るのが恐ろしかった。


 振り返ってあいつの顔を見たら、もう逃げられない。そうなったらお終いだ! なぜかそんな気がしたのだ。ただひたすら前だけを見つめ、純一は走り続けた。


「私を殺して下さい! 殺してくれ! 殺すんだ!」


 背中に襲い掛かるその声に、言い知れぬ恐怖を感じながら、純一は走った。逃げていく純一と、追いかけてくる訪問者とを、道行く人々が不思議そうに見つめていた。なぜ誰も助けてくれないんだ? 俺が追われているのは明らかだろう? それとも俺が何かしでかして、あいつから逃げていると思っているのか。馬鹿な。そんな馬鹿な! 


 しかし、純一にはそれを周りの人々に説明している余裕はなかった。今の純一には、あいつから逃げることしか考えられなかった。すると、背後から突然、意外な言葉が聞こえてきた。


「そいつを捕まえてくれ!」


 ……何だって? 純一が、訪問者その言葉に驚くのと同時に。まるで申し合わせたかのように、それまで傍観者だった周りの人間が、純一の前に立ちはだかった。嘘だろ、嘘だろ? 純一がそう思う間もなく、純一の体は立ちはだかった人々によって取り押さえられた。


「放せ、放せよ!」

 純一の叫びも虚しく、多勢に無勢、一人の男が純一を羽交い絞めにし、もう一人が右手を、そしてまたもう一人が左手をがっしりと掴み。純一はあっという間に身動き出来なくなっていた。懸命にもがく純一の前に、あの訪問者が、尚も額から血を滴らせながら、ゆっくりと近づいてきた。


「逃げなくてもいいじゃないですか……これは、あなたにとって、『有意義なお話』なんですよ?」


 訪問者は純一に、なぜか誇らしげにそう告げた。それはきっと、純一を押さえ込んでいる人々に対しての言葉でもあったのだろう。訪問者は、血だらけの顔を、純一の顔に接するかというほどに近づけてきた。なぜ、わからないのか。そう言いたげに。


「さあ。これで、私を殺して下さい」

 訪問者は買ったばかりのような、ギラリと光るナイフを懐から取り出した。羽交い絞めにされた純一は、イヤイヤをするように、首を左右にふるふると動かすことしか出来なかった。


「なんでやらないんだ?」

 純一を押さえつけている男の1人が言った。


「可哀相に、血だらけになってるじゃない……」

 押さえつけられている純一よりも、血を流している訪問者に同情するかのように、通りすがりの老婆が言った。


「ひと思いにやってやれよ! それが思いやりってもんだろ?」

 先ほどからこの騒ぎをずっと見つめていた、通行人の一人が叫んだ。それをきっかけに、純一と訪問者を取り囲んだ野次馬の群れから、シュプレヒコールが湧き上がった。


「こーろーせ! こーろーせ!」


 訪問者は、まるで舞台俳優がスタンディングオベーションの拍手に応えるかのように、声を張り上げる野次馬に向かって深々と頭を下げた。みんな、狂ってる。どうしちまったんだ。みんな狂っちまった! 純一は身動き出来ない体勢のまま、そう思っていた。


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