第2話
……。
何だって? こいつは今、なんて言ったんだ。自分の聞き違いであってくれ、純一はそう思いながらもう一度聞き返した。
「あなたを、なんですって?」
しかし、帰って来た答えは。相変わらず丁寧な口調の答えは、先ほどと変わらぬものだった。
「私を、殺してください。そう言ったんです。手段は問いません。先ほどのお金は、その謝礼です。それでまだ足りないと言うのでしたら、もっと差し上げます。とにかく、あなたは私を殺してくれればいいのです。お願いしたいのは、そのことだけです!」
こいつはやっぱり、頭がおかしい。純一は確信した。でなければ、相当に性質の悪い冗談だ。ドッキリカメラかなんかで、ドアを開けるとリポーターやカメラマンがぞろっといたりするのか? それにしたって悪質過ぎる。
純一は、郵便受けに放り込まれた札束を押し戻そうとしたが、上手く逆向きには出ていかなかった。業を煮やして、閉ざしたままだったドアを少しだけ開き、そこからこの「頭のイカれた」訪問者に向かって札束を投げ返そうと思ったのだが。その、少しだけ開けたドアのチャンスを、訪問者は逃さなかった。持っていたスーツケースの端を、がしっとドアの間に食い込ませたのだ。
「何をするんですか!」
その突然の行動に、純一は思わずカッとなって叫んでしまったが。訪問者の方は、相変わらず丁寧な、そして飄々とした口調で純一を口説き続けた。
「あなたにとって有利なお話だと、申し上げているでしょう? 私を殺してくれるだけでいいんですよ? なんだったら、そのための道具も用意して来てますから。このスーツケースの中から、お好きなものを選んで下さい。ナイフ、金槌、首を絞める荒縄、さすがにピストルは用意出来ませんでしたが、毒薬に近いものも取り揃えてあります。どうぞ中をご覧になって、あなたがこれぞと思うものを……」
「いい加減にしろ!」
純一はその変わらぬ丁寧な口調が、逆に癇に障り。押し込まれたスーツケースを無理やり外へ押し出し、バタン! とドアを閉めた。……つもりだった。しかしドアは、何か「ぐきゃっ」という嫌な音を立てて、完全に閉まることを拒んだ。スーツケースの代わりに、何かがドアに挟まれたのだ。もっと何か、柔らかいものが。
純一は、酷く嫌な予感に襲われながら、恐る恐る挟まれたものを見た。それは、訪問者の指だった。そいつの人差し指と中指、そして薬指の三本が。無理やり閉めようとしたドアに挟まり、普通とは逆の方向に捩れ曲がっていた。
「ぐわあああ! うぐぐぐぐ……」
閉めかけたドアの隙間から、訪問者の悲痛な声が漏れ聞こえてきた。さすがに純一も、このままドアを閉め続けることは出来なかった。
「だ、大丈夫ですか?」
純一はドアをもう一度開き、この時初めて、訪問者の顔をまじまじと見た。まだそれほど歳は取っていない、二十代の後半くらいだろうか。髪はきっちりと整えられ、スーツの着こなしもきちんとしている。ぱっと見た感じは、ごくありふれたセールスマンとしか思えないのだが。ただ、こいつの言い出した事だけが明らかに常軌を逸していたのだ。
「大丈夫、じゃないですよ……こうやって、痛めつけてから殺すのがあなたの趣味なんですか? それならそう言ってくれれば、こちらも心の準備が出来ますのに……」
訪問者は、ぐにゃりと力なく逆方向に折れ曲がったままの指を、純一の面前にかざしながら言った。苦痛にうめきながらも、そいつはまだ顔に笑顔を取り繕っていた。やっぱり、こいつは頭がイカれている。完全に。
折れ曲がった指と顔に張り付いたような笑顔に、純一はかすかに恐怖を覚えていた。今度は何も挟む隙を与えず、純一はドアを、バタン! と乱暴に閉めた。
「帰って下さい! あなたを殺すつもりなんてありません! そ、その指の事は、俺の責任じゃないですからね!」
閉めたドアに背中をつけ、純一は叫ぶように言い放った。あれはあいつが無理やり指をドアに差し込んできたからいけないんだ。俺が悪いんじゃない! 自分に言い聞かせるように、純一は心の中で何度もそう繰り返していた。しかし、目の前に突きつけられた、あのぐにゃりとした指の形は。目をつぶっても、鮮明に浮かび上がってきた。
なんなんだ、一体なんなんだよあいつは……? 見たばかりの悪夢を振り払うように、純一は首をふるふると横に振った。すると。ドアの外に、訪問者の気配がなくなっていることに気付いた。
あれっきり、語りかけてくる言葉も聞こえてこない。とうとう諦めてくれたのか……? 純一はかすかな期待を込めて、ドアをそっと開けてみようとした。その、時。
がっしゃーーーん!
大きな音を立てて、ガラスが割れる音が響いた。その音は、純一が今いる部屋のドアとは、ちょうど反対側の方から聞こえてきた。まさか。純一は急いで音のした部屋に向かった。そこで純一は、先ほどの折れ曲がった指以上に、信じられないものを目の当たりにした。
がしゃーーん! がしゃーーーん!
あの訪問者が、部屋の外から窓ガラスに、自分の頭を打ち付けていたのだ。何度も、何度も。頭突きをかますように、思い切って。
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