俺を殺してくれ
さら・むいみ
第1話
トン、トン、トン……
アパートの部屋のドアをノックする、その礼儀正しいとも思える控えめな音に。純一は密かに、嫌な予感を抱いていた。乱暴にドアを殴りつけるような粗野な感じでもなく、門前払いになるのを予想してビクつきながらというのでもなく。そのノックの仕方は、ベテランというか、その発する音の主がかなり熟練した者だという雰囲気を醸し出していた。
元よりセールスの類は一切受け付けないつもりでいる純一であったが、この訪問者は追い返すのに少々手こずるかもしれない。そういう思いを抱かせるに充分なノックの音だった。
「どちら様ですか?」
鍵は掛けたまま、純一はドア越しにその訪問者に問いかけた。帰って来た言葉は、やはり予想した通り非常に落ち着いた抑揚であり、「決して怪しい者ではありません」とでも言いたげな口調であった。
「突然お伺いしまして、申し訳ありません。今日はあなたにとって、とても有意義なお話をお持ちしました」
まあ、セールスとしては至極ありふれた謳い文句ではあるが。それもかなり「言い慣れている」といった感じを伺わせた。おそらくは、どう見ても高級とは言えないこの安アパートで、しかも返答してきたのが学生っぽい若い声だったと言うことで。ドアの向こうの「訪問者」も、これはいけそうだという手ごたえを掴んだのかもな。
純一はしばし、ドアの前で考えていた。こいつは、ちょっとやそっとじゃ引き下がらないかもしれない。まともに相手にしない方が賢明かな。
「いえ、そういった話には興味ありませんので」
純一はキッパリとした口調で言い放った。これであなたとの会話は終わりですよ、という意味を込めて。しかしやはり、そいつは引き下がらなかった。
「そうおっしゃられるお気持ちもわかりますが。ここはとりあえず、お話だけでも聞いて頂けないでしょうか? その上で、お断りになるのも、ご承知頂くのも。あなたのご自由にということで」
なかなか上手い語りかけだが、そんな誘いに乗って一度話を聞こうものなら、これでもかと食い下ってくるのは目に見えている。ここはひとまず、丁重にお引取り頂こう。
「いえ、結構です。話を聞くつもりもありません」
極めて事務的に、もうお帰り下さいという思いを込めて純一は言い切った。すると、相手は少し押し黙った。が、足音がドアの前から去っていく気配はない。何か次の手を考えてるんだろうか? 思った通り、しぶとい奴だな。しかし、次にその訪問者が打ってきた手は、純一の予想をはるかに上回るものだった。
しばらくの沈黙の後。ドアの下から、すっと一枚の紙切れが差し込まれてきた。チラシか何かなのか、まずはこれを読んでみろっていうことか? 純一は無論読むつもりはなく、紙切れをそのまま外に押し返そうと思い、玄関にしゃがみこんでギョッとした。折りたたまれた紙切れの間に、紙幣が挟まれていたのだ。それは、一万円札だった。
「な、なんですかこれは?」
さすがに純一も動揺を隠せなかった。一体どういうつもりだ。これをどうしろっていうんだ? まさか、そのまま俺にくれるっていうわけでもあるまい……?
「それは、あなたに差し上げます。あなたにとって、有意義なお話だと申し上げたでしょう? もし、それで足りないというのであれば……」
純一の考えを見抜いていたかのような訪問者の声と同時に、今度はドアの郵便受けの隙間から、何かがどさっと落ちてきた。それは「札束」だった。先ほどと同じく、一万円札の。数枚ではない、何十枚という束の。あきらかにそれだけの厚みをもった「束」だった。
「い、いやいや。こんなもの受け取れませんよ!」
わけもわからず、こんな大金を。何を考えてるんだこいつは? 純一の動揺は更に加速していった。これは新手の詐欺なのか。これで誘っておいて、最終的に俺の金を根こそぎ奪い取ろうとか。それとも。こいつは少々、頭がおかしいのかも……?
「いえ、これはほんの、私の気持ちですから。全てあなたに差し上げます。あなたは、私の頼みごとをひとつ、聞いてくれるだけでいいのです」
頼みごと……。来たか。俺に何をやらせようっていうんだ。普通ならそんな誘いは即座にお断りしている純一だったが。いかんせん、目の前に突然札束を見せ付けられて、思わず聞き返してしまった。
「頼みって……何を?」
訪問者は、ここぞとばかりに。それまでと変わらぬ、極めて丁寧な口調で、俺の質問に答えた。
「私を、殺してください。あなたの手で」
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