第8話 怪奇レポート003.蠢く見慣れた壁のシミ・参
私が駐車場に向かうと、真藤くんはすでに車のエンジンをかけており、今にも走り出したそうにしていた。
「真藤くんってすごいんだね。あのシミを取っちゃうなんて」
「おつぼねさんが言ってたんス。聖水ぶっかけて紙に写し取って来いって。でも、あのシミも聖水はヤベェって気付いてたのか逃げ回って大変だったっス」
「え? あの間も動いてたの!?」
見たかった。
動くシミなんてそうそう見れるものじゃないだろうし。
「紙見たらまだ動いてるんじゃないっスか?」
「そうかな?」
ワクワクしながら足元に置いてあったアタッシュケースに手を伸ばす。
たかが紙一枚、と思う反面、それだけ厳重にしまい込んでおかなければいけないほど危険なのかなという緊張感も覚える。
ゆっくりとアタッシュケースの蓋を開けると、中にはひとつの瓶が入っていた。
よく砂浜に打ちあがっているボトルメールのような状態で中にあの紙が詰められている。
ひとつ違っているのは、その瓶の中になみなみと液体が注がれていることだろう。
「あとの処理はゴールデンウイーク明けに来る人がやってくれるらしいっス。それまでコルクは外しちゃダメっスよ~」
中の液体はさっき使ったという聖水なのだろうか。
私が瓶の中の紙を覗き込むと、それに反応するようにもぞもぞと紙に移ったシミが動いた。
「うわっ」
覚悟はしていたつもりだったけど、シミの一部が触手のように伸びて迫ってきたので驚いて瓶を取り落としてしまった。
その弾みできちんと閉まりきっていなかったらしいコルクが抜ける。
「わあああああああああ!!!!」
足元に広がる聖水。
それと共に瓶から出てきたシミを閉じ込めた紙。
逃げられる!
パニックになった私は反射的にハイヒールのかかとでその紙を踏みつけてしまった。
次の瞬間だった。
耳をつんざくような低いうめき声と共に、車内に煙が立ち込めた。
車を走らせていた真藤くんが急ブレーキをかける。
このまま私たちも別の世界に引きずり込まれるんだと諦めにも似た気持ちになりながら心の中で皆に謝った。
小津骨さん、結城ちゃん。ただでさえ人手が足りないのに、ごめんなさい。
お父さん、お母さん。親孝行もろくにできないまま、お別れもちゃんと言えなくてごめんなさい。
そして何より、真藤くん。私のせいでごめんなさい。
急停止した車の窓が開き、煙が外へ流れ出す。
だんだんとクリアになっていく視界に映ったのは……――。
「何事っスか!?」
半泣きになった真藤くんだった。
「ご、ごめん。瓶を落としちゃって、シミが逃げそうになって……。つい踏んじゃったの」
「マジっスか!?」
顔面蒼白になった真藤くんが助手席の足元を覗き込む。
びしょびしょになったマットと、ふやけた紙を貫いた私のヒール。
紙からはまだ細く煙が出ていた。
「マジだぁ……」
脱力してシートに倒れ込む真藤くん。
「ど、どうしよう?」
せめて少しでも元の形に近づけようと空っぽになってしまった瓶を拾い上げ、ヒールが貫通している紙を外そうと手を伸ばす。
「待つっス!」
「……え」
「迂闊に触ったら危険かもしれないっス。このまま伏木分室に戻っておつぼねさんに何とかしてもらった方がいいと思うっス」
そうか。真藤くんが言うことも一理ある。
何があるかわかんないもんね。
濡れたハイヒールがなんとも不快だ。
けれど、これ以上不用意に行動して事をややこしくするのは避けたいのでじっと我慢する。
横目に見た真藤くんの表情はいつになく真剣で、なんとなく声を掛けることもはばかられた。
再び車が走り出してから伏木分室に辿り着くまでの十分間は、私が今まで生きて経験してきたどの十分間よりも長く感じられた。
「おつぼねさ~ん! 急ぐっスー!!」
伏木分室に着くなり駆けて行った真藤君は、勢いそのままに小津骨さんの手を引いて車へ戻ってくる。
事情を把握しきれていない小津骨さんは困惑した様子で、びしょびしょになった車内とハイヒールに貫かれたふやけた紙を目にして眉間にしわを寄せた。
「すみません。私が瓶を落としてしまって……。シミが逃げそうになったんでとっさに踏んじゃったんです」
「あらぁ……ちょっと待ってちょうだい」
そう言うと、小津骨さんはどこかへ電話をかけ始めた。
私の足元とにらめっこしながら小津骨さんが何やら相槌を打つ。
電話口から漏れ聞こえる通話相手の声は、若い男性の者のようだ。
「香塚さん、もう動いて大丈夫よ」
電話を切った小津骨さんが私の肩を叩く。
その瞬間、金縛りが解けたように私の体から力が抜けた。
「怜太がシミを写し取るのに使った紙はちょっと特殊なものでね、本来なら聖水に漬けてもふやけたりしないみたいなの」
「そういえばそうだったっス」
「今は見ての通り普通の紙になっているでしょう? それはこの紙が役割を終えた証拠なんですって」
小津骨さんが説明をしてくれている間にタオルを持った結城ちゃんがやってきた。
私はタオルを受け取り、濡れてしまった足とハイヒールを拭う。
「私がせっかくの紙をダメにしちゃったってことですよね……? 本当に申し訳ありません」
調子に乗って瓶を覗いてしまったことを後悔しながら頭を下げると、小津骨さんは大げさに手を横に振りながら笑い始めた。
「違うのよ。香塚さんの一撃で怪異が退治されたんですって!」
「えっ!?」
おかしくてたまらないといった様子で笑い続ける小津骨さんを尻目に、私たち三人は顔を見合わせる。
ということは、私が車内で聞いた低いうめき声は怪異の断末魔だったってこと?
「すごい! すごいです! 香塚先輩!!」
目をキラキラさせながら結城ちゃんが羨望のまなざしを向けてくる。
私はまだ信じられない気持ちでいっぱいだった。
人一人をいとも簡単に消し去ってしまうような怪異があんな軽い一撃で本当に消えてしまうんだろうか。
怪異の退治ってマンガで見るみたいにもっと派手で複雑で、素人には到底真似できないものだと思っていたのに。
【怪奇レポート003.蠢く見慣れた壁のシミ
概要:伏木地区内にあるアパートの一室にて、大きさや形の変化するシミが観測される。
住民の男性はシミに恐怖感を抱きアパートを離れていたが、荷物を取りにやむを得ず部屋へ戻った。その際にシミに近付いたところ、シミは女性と思われる形に変化し、男性をシミの中へ引きずり込んだ。
後日確認したところシミは十円玉大になっており、動いたり形が変わったりする様子は見受けられなかった。
対応:現地調査により、シミを
搬送中の事故により消滅したものと思われる。】
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