第7話 怪奇レポート003.蠢く見慣れた壁のシミ・弐
改めて状況を整理すると、そもそもこの部屋に住んでいたのは目の前にいる赤い髪の男性ではなく、彼と一緒にバンドを組んでいた友人であったようだ。
友人がこのアパートに入居した時からリビングの壁にはシミがあった。
そのことは内見の時に大家からも説明を受けていたという。
「ここに住み始めてすぐの時に来てるんですけど、タバコでも押し付けたのかなーってくらいのサイズのシミだったんですよ」
ところが、友人は半年ほど経った時にシミが大きくなっていることに気付いたらしい。
気になって濡らした雑巾でこすってみたけれどシミは消えない。
そうこうしている間にもシミはどんどん大きくなっていったので、友人はポスターを貼ることでシミを見えないようにしたそうだ。
ところが、壁のシミは友人をあざ笑うように、もぞもぞと動き回るようになったという。
「自分たちは幻覚でも見たんじゃね? って軽く流してたんですけど、その怯えようが普通じゃなくて。でもクスリとかやるようなやつじゃなかったんで、シミのことを気にしすぎて精神的におかしくなったのかと思ったんです」
周囲は友人に精神科の受診をすすめ、彼も納得がいかないなりにバンドメンバーに連れられて病院へ行ったそうだ。
診断の結果は異状なし。
とりあえず、ということで不安感を取り除くような薬を処方されて終わりになった。
「その頃だったと思います。ダチはライブハウスで一緒になった他のバンドのメンバーとかにもシミの話をして、不気味だから帰りたくない。泊めてくれ! って言って回るようになったんです」
周囲の人たちも彼のただならぬ様子を知っていたため生活に支障をきたさない範囲――二、三日ぐらい――ならという条件付きで彼を受け入れたという。
そうして知人の家を転々としていた友人だったが、ある時ライブで使う衣装やギターを持ち出すためどうしてもこの部屋に戻らなければいけなくなった。
その時に友人を泊めていたのが赤髪の彼で、アパートまで付き添ってくれるまでここから出て行かないぞという友人の強硬な態度に根負けして同行することにした。
およそ一ヶ月ぶりに一緒に部屋に入った二人だったが、リビングを見て泣きたくなったという。
「シ、シミが。明らかにデカくなってたんです」
「大きくって、どのくらいですか?」
「そのポスターからはみ出るくらい、ですね」
そう言って示したのはB2サイズくらいだろうか。
お店に飾ってあるような、かなり大きめのポスターだ。
一人ではないということが友人のヤンチャ心に火をつけたのかもしれない。
ずかずかとポスターに歩み寄ると、それを一思いにはがしてしまった。
「今でもハッキリ覚えてますよ。形がなんか人間に似てて……。
しかも、女だなってわかるんです。ワンピース着た女がこっちに手を伸ばしてるみたいな形って言ったら伝わるかな?
それが不気味だったから自分は玄関のところで待ってようと思ったんです」
彼が友人に背中を向けた瞬間、鋭い悲鳴が響き渡った。
突然のことに驚いて反応が遅れ、彼が振り向いた時には友人の足が壁のシミに吸い込まれていくところだったという。
「その時のシミは? どんな形だったとか、なにか声とか音みたいなものが聞こえたとかはありませんか?」
「声とか音はなかったと思います。なんていうか、自分と友人がめっちゃ叫んでて、それで聞こえなかっただけかもしれないけど。
シミの形はどんどん変わって、ぐーっと小さくなっていきました」
「友人さんを吸い込みながら小さくなったんですね?」
信じられないと思いながら私が尋ねると、赤髪の男性はこくりとうなずいた。
「慌てて駆け寄ったんですけど一歩及ばなくて。友人はすっかりシミに吸い込まれました。
その直後にシミにも触ったんだけどただのシミなんですよね。温度も周りの壁と一緒だし、柔らかかったり湿ってたり、盛り上がってるってこともないし」
「なるほど……」
私が取材を続けている間、真藤くんは一人でポスターをはがしシミとにらめっこをしている。
取材には一切かかわろうとしない辺り、彼の役目は運転手だったということだろうか。
それとも小津骨さんにチクったら改善されるのかな?
「友人さんがいなくなった後はどうなされました?」
「とりあえず警察呼んだんですけど、突拍子もない話だから信じてもらえなくて。自分が頭おかしい奴なんじゃないかって疑われました。それでも無理言って捜索願いを出させてもらったけどそれっきり、って感じですね。
あれからこの部屋に入ってなかったんですけど、たぶんシミの大きさは縮んだ時から変わってないと思います」
「そうですか……」
私は男性の証言をメモに残しながらこの後どうしようか考えていた。
推理小説は好きだけど私はシャーロック・ホームズじゃないから謎は解けない。
これ以上赤い髪の男性から聞き出せる情報もなさそうだし、伏木分室に戻って報告書を作ることにしようか。
「取れたっス!」
私の思考を遮ったのは、真藤くんの歓喜の声だった。
ガッツポーズをする真藤くんの前には、すっかりシミがなくなった壁。
どこにシミがあったのかさえわからないほど周りの壁紙の色に馴染んでいる。
「ほ、ほんとだ……消えてる……」
赤い髪の男性は呆然としながら声を漏らした。
「真藤くん、どうやったの?」
「どうって……、これを使ったっス」
彼の手にあったのは霧吹きと一枚の紙だった。
紙の端にはさっきまで壁にあったと思われる黒いシミが移っている。
「逃げられないうちに帰るっス!」
真藤くんは紙をクリアファイルに挟むと、赤い髪の男性に頭を下げて足早に部屋を出て行ってしまう。
「あっ! ええと、これ、取材の謝礼です」
小津骨さんに謝礼として渡すようにと言われていた封筒を男性に差し出すが、彼は首を横に振って受け取ってくれない。
「シミを消してくれただけで十分すぎるくらいなんで」
「そういうわけには……。それに、ご友人さんが戻っておられないということに変わりはありませんから!」
適当に理由付けをして、封筒を無理矢理押し付けるようにして私も部屋を出た。
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