第6話 怪奇レポート003.蠢く見慣れた壁のシミ・壱

 伏木分室で働き始めて最初の一週間は本当にあっという間だった。

 町の人たちから持ち込まれた怪異の目撃情報を取捨選択する基準だとか、みんなが書いている怪奇レポートの書き方だとか、そういう基本的なことを教えてもらっているうちに一日が終わってしまうのだ。


「本当に八時間も経ってるんでしょうか」


 お昼休憩に入るよりも早く、体感三時間ほどで終業時間を知らせるチャイムが爆音で鳴り響いた日、私は思わず尋ねてしまった。

 まだ午前中のはずなのに、空は夕焼けで赤く染まっている。


「経ってないんじゃないかと思います」

「経ってないでしょうね。でもいいのよ。終業の鐘が鳴ったんだから」


 小津骨おつほねさんは真面目で厳しい人かと思ったら割とゆるい雰囲気で働いているらしい。

 結城ゆうきちゃんも真藤しんどうくんも、私だってゆとりを持って働けるのは大歓迎だ。


 けれど、これじゃあいくらなんでも時間が足りない。

 かと言って家に持ち帰って作業を進めるのは小津骨さん的にNGらしい。


香塚こうづか先輩って真面目なんですね」

「外部の指導の人が来るのはゴールデンウイーク明けに決まったんだから、それまでは適当でいいのよ」


 なんて言って小津骨さんは私の肩をポンと叩いた。

 真藤くんは一人、部屋の片隅で虚空に向かって猫じゃらしを振っている。

 姿は見えないけれど、猫じゃらしの先が不規則に揺れるのであの子がじゃれついているのだろうと思う。


 猫はこの場所が気に入ったようで、最近はもっぱらここにいるようだ。

 みぃみぃと鳴きながらみんなの足元に体を擦り付けては構ってくれアピールをするので余計に仕事が進まなくなっている。


「スネコスリの正体って、じつはああいう子なんですかね」

「かもしれないわね」

「ワタシ、みぃちゃんみたいなスネコスリだったら大歓迎です!」


 とろけるような表情で結城ちゃんが指を組む。

 その様子はまさに恋する乙女。


 猫は「みぃちゃん」という名前が気に入ったのか、呼ばれるとみぃみぃ鳴きながら飛んできてくれる。

 結城ちゃんは姿の見えないはずのみぃちゃんをいとも簡単に捕まえて、その体に顔をうずめるようなしぐさをした。

 そして、むふっ、むふっと含み笑いをしている。


 ちょっぴり変態チックな後輩と連れ立って、私たちは公民館を出た。


「そうそう、香塚さんにお願いしたいことがあったのよ」

「何ですか?」

「取材、行ってもらえないかしら?」


 小津骨さんの突然の申し出に、私は驚きつつ首を縦に振った。




 翌日、私は真藤くんと共にとあるマンションの前にいた。

 いつもはゆるい服装の真藤くんが、珍しくスーツを着ている。

 伏木分室は基本的に服装自由でありつつ、こういう取材の日だけはスーツ指定になるらしい。


「でも、意外だったな。真藤くんって免許持ってるんだ。しかも、思ったより運転上手いし」

「この辺じゃ免許ないと生きていけないっスからねー」


 たしかに、それはそうなんだろうけど。

 十九歳と言えばまだ高校を卒業してすぐじゃないか。


「そういえばさ、真藤くんって大学は行かなかったの?」

「行ってるっスよー?」

「え? だって授業は……?」

「ほとんどリモートっス」


 なるほど。

 彼がたまにパソコンにイヤホンを繋いでいるのはそれが原因だったようだ。


「試験とかレポートの時期になったら消えると思うっス。その時はお願いするっス」

「うん。それは全然構わないんだけど」


 こんな風に働いているのがバレたら怒られたりしないんだろうか。

 私が心配してるのを察したのか、真藤くんはポリポリと頬を掻いた。


「俺、おつぼねさんには逆らえないんス」


 真藤くんは小津骨さんのことを「おつぼねさん」と呼ぶ。

 小津骨さんはそれに対して笑顔で怒る。

 それが定番のやり取りになっているようだった。


 年上の人事部長と対等にやり合ったり、かと思えば息子ほど年の離れた真藤くんとも親しそうだったり。小津骨さんは不思議な人だ。


「行くっスよ~」


 言いながら、真藤くんはインターフォンのボタンを押す。

 少し間があって、部屋から赤い髪の毛の男性が出てきた。


「キッカイ町立図書館、伏木分室の真藤っス」

「香塚です」

「あぁ」


 赤い髪の男性は気の抜けたような返事をして、中に入るようにと私たちに手招きした。

 いきなり知らない人の部屋に入って大丈夫なんだろうか。

 心配になって隣の真藤くんに視線を向けると、彼はもう靴を脱いで部屋の中に入っていくところだった。


「お邪魔します」


 真藤くんに置いていかれないように慌てて後に続く。

 派手な見た目とは裏腹に几帳面な性格なのか、部屋の中は綺麗に整理整頓されていた。


「こちらがお話されていたお部屋なんですか?」


 私が尋ねると、赤い髪の男性は彼と対角線上にある壁のポスターを指さした。

 彼は部屋の端から端、最大限の距離を取って何かを警戒しているようだった。


「ここっスか」


 真藤くんはためらうことなく男性が指さしたポスターをめくり上げる。

 男性はとっさに顔をしかめ、壁から目を逸らした。

 そんなに危険なものがあるのだろうか、と目を向けてみると、壁には十円玉ほどの大きさの黒いシミがあった。


「自分もダチから聞いただけなんで詳しいことはわかんないですけど、これがデカくなって動いたって……」


 恐怖で歪んだ彼の顔に釣られ、私までしかめっ面になってしまう。


「あなたはご覧になられたんですか? その、シミが動くところって」

「自分は見てません。でも、ここに荷物を取りに来た時、一瞬目を離した隙にダチは消えたんで。絶対このシミのせいです」


 嚙みしめるように答えた彼の顔には、確信が色濃く表れていた。

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